佐藤淑子『日本の子どもと自尊心 自己主張をどう育むか』
- 作者: 佐藤淑子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2009/02
- メディア: 新書
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いろいろな学習カリキュラムを作っている中で、「自尊心」というか「Self Esteem」をもっともっと子どもに持たせてあげたいなあ、と思うのです。で、日本と外国はずいぶんこのあたり違うな、と思ったりもしているので、そこらへんの話が書いてあったところを引用。
ほめることについて日米を比較した研究からは、ほめられたりほめたりすると嬉しいことは二つの文化で共通しているが、日本人は親しい人より親しくない人を、よりほめる傾向があることが見出されている。まして母子の場合はその傾向がより強まる。「いいお子さんですね」とほめられると、大慌てで「とんでもない」と否定するくらいに。
イギリスで子どもを育てた日本人研究者は、イギリス人の子どもをほめると母親が「ええ、彼は一生懸命やりました。とても誇りに思うわ」と答えると記している。私もイギリスで母親が自分の子どもを手放しでほめる場面に幾度も居合わせたが、そばで聞いている子どもはそれは幸せそうな顔をしたものであった。(p.30)
海外で子育てしている人は、これを「ああ、そうそう!」と思う人、多いんじゃないかなあと。自分の息子を育てるときには、「I'm so proud of you.」とたくさん(日本語で言うか、英語で言うかは悩みどころだけど)、伝えてあげたいと思うのです。で、いろんなことで褒めてあげたい!
以下、メモ。
p.5
セルフ・エスティーム=
自分自身の存在や生を基本的に価値あるものとして評価し信頼することによって、人は積極的に意欲的に経験を積み重ね、満足感を持ち、自己に対しても他者に対しても受容的でありうる」というように、自己への肯定的評価。
p.9-10「
セルフ・エスティームは自分を「とてもよい(very good)」と考える優越性や完全性を意味するという見方や、そうではなくて「これでよい(good enough)」という自分なりの満足感を意味するという見方がある。前者は自他の違いに着目し社会的比較による峻別を問うているわけであるし、後者はたとえ自分が平均的な人間であったとしても自分が設定した価値基準に照らして自分を受容することに基づいている。
very good(とてもよい)のセルフ・エスティームより、good enough(これでよい)のセルフ・エスティームはより強靭である。自己の優越性や完全性に依拠するvery goodのセルフ・エスティームは、それが失われたときにはもろい。けれども、good enoughのセルフ・エスティームは社会的比較に基づくものではないがゆえに、永続性がある。
しかしながら、very goodとgood enoughのいずれかというよりも、現実には人は二つの側面でセルフ・エスティームを捉えている可能性がある。それは人が個性的存在であり、と同時に社会的存在であるからである。」
p.10-11「
人の発達には社会化と個性化がある。社会に適応できるようにしつけや教育を受けるプロセスが社会化であり、その一方でほかの誰とも違う存在になっていくことを希求するプロセスが個性化である。人が他者の存在なしに自分の個性を確立することはあり得ないゆえに、社会化と個性化は一人の人間のなかで相矛盾する対立的過程ではない。very good とgood enoughのセルフ・エスティームについても同じことがいえるのではないだろうか。
そして発達段階によって、どちらかのセルフ・エスティームがより意識化されることもあるだろう。たとえば、将来の職業選択に結びつく自分のアイデンティティを模索する青年期にはvery goodに傾倒することもあるだろう。また大きな問題を抱えていたり安心して生活することが脅かされたりする状況ではgood enoughに依拠することが中心となるだろう。」
p.22「
私たちは、自分が小さなつまずきで思いがけなくひどく動揺することを知っている。とはいえ、私達には大きな問題をタフに乗り越える力が備わっていることにも気づかされる。その自己の柔軟性、傷ついた自分の回復力(レジリエンス)への信頼こそがセルフ・エスティームといえるかもしれない。」
p.26-27
母親による子どもへの評価
・日本人の母親はアメリカ人の母親と比べて子どもの知的発達について厳しい評価をし、より高い知的発達を期待する傾向がある
・人の目を敏感に意識することが、日本人の母親が子どもへの評価レベルを厳しくさせていて、並外れて優れている(par excellence)のでなければ「できる子」とみなせないシステムが作動している
・母子の一体感が「自分の子ども」への評価=「母親としての自分の評価」と認識することにつながっている。したがって、自分の子どもを高く評価するおとは自画自賛することだという気恥ずかしさが先に立つ
・スティーブンソンとスティグラーによれば、子供の成績について日本の母親が「平均」と記述する同じ水準の成績を、アメリカの母親は「平均より上」と記述するというが、どちらも現実的な子どもの脳録の把握からはずれている。→アメリカ人の子どものセルフ・エスティームの高さは母親による過大評価と、日本人の子どものセルフ・エスティームの低さは母親による過小評価と、対応していることが指摘されている
p.29「
外国から見て「甘い」といわれてきた日本人の母親はただやさしいだけではない。容易に自分の感情をあらわにしない分だけ、子どもからみると母親が自分のことを肯定的にみてくれているのかどうかわかりにくい。
日本の子どもは母子の言葉のやりとりで日本型コミュニケーションを学んでいく。明確な言葉で伝えるのではなく、あいまいな生返事、不機嫌さ、目顔で否定的感情をほのめかし、しつけをする。子どもは母親の気持ちを推測し自分の行動を律する。「あいまいでありながら強い規範を内包する日本文化」は、母親を通して幼児期から子どもに伝えられていく。
母親による子どもの達成への高い発達期待と、あいまいな感情表現のコンビネーションによる子育ては、子どもが我慢強く達成の能力が高い時にはうまくいくかもしれない。どこまで努力すれば母親が満足してくれるのかわからないうえに、かえって動機づけがより長く持続することもあるだろう。しかしながらその一方で、子どものコミュニケーション能力や達成への自信がまだ十分ではないときには、どこまで努力しても認められないと感じる心理状態に陥り、低いセルフ・エスティームにつながるリスクもある。」
p.30「
ほめることについて日米を比較した研究からは、ほめられたりほめたりすると嬉しいことは二つの文化で共通しているが、日本人は親しい人より親しくない人を、よりほめる傾向があることが見出されている。まして母子の場合はその傾向がより強まる。「いいお子さんですね」とほめられると、大慌てで「とんでもない」と否定するくらいに。
イギリスで子どもを育てた日本人研究者は、イギリス人の子どもをほめると母親が「ええ、彼は一生懸命やりました。とても誇りに思うわ」と答えると記している。私もイギリスで母親が自分の子どもを手放しでほめる場面に幾度も居合わせたが、そばで聞いている子どもはそれは幸せそうな顔をしたものであった。」
p.31
成功と失敗をどう考えるか
・欧米では成功した場合には自分の「能力」や「努力」などの内的要因に帰属させ、失敗した場合には「課題の困難さ」や「運」という外的要因に帰属させる傾向があるとされる
↓
成功を自己の内的要因に帰属させることが、自己高揚感につながり失敗を外的要因に帰属させることで自己防衛ができる
・日本人は成功を外的要因に帰属させ、失敗を自分の努力不足、能力のなさなどの内的要因に帰属させることが多いという。日本人は、「努力」と「能力」を切り離して考えるのではなく、「努力」次第で「能力」が増大するという信念を抱いていることや、事の成否を「運」という外的要因に帰属させることが必ずしも欧米のようにやる気のなさとは結びつかないことが述べられてきた。
p.77-78「
1990年代の初めに日英比較研究のため、日本人幼児を受け入れているイギリスの幼児学校のバイリンガル教育の先生が私に話してくれたことである。
Boys learn survival language first. Girls learn social laguage first.
(男の子は周囲に負けないための英語を最初に覚える。女の子は社交的な英語を最初に覚える)」
↓
survival language: 「ぶつなよ」とか「もういっぺんいってみろ」のような毅然とした態度で自分を守る英語
social language: 「あなたのセーターかわいいね」「絵が上手ね」などの社交的な英語
p.135-136
ロバート・キーガン『自己の変革(The Evolving Self)』で、ピアジェの認知発達理論とコールバーグの道徳の発達理論に基づき、自己変革の発達段階を示した。
ステージ0:反射と感覚自体が自分であり、自己と外界の区別が未分化な段階
ステージ1:自己の認識や衝動にとらわれている
ステージ2:自己の欲求、興味、望みに基づいて行動し、他者の視点をとることができない
ステージ3:他者の欲求を自己に投影することができ人間関係こそが存在理由となる
ステージ4:自己は他者と区別され、自律が他者との関係性よりも優先される
ステージ5:個人は、組織から分離し自分のキャリアや宗教、国その他の自分が関連する組織を対象化できる
p.140「
日本の社会では『甘えの構造』にみられたような自他の境界があいまいで心理的距離が近い関係を構築することが大切であるといわれてきた。この「甘え」が構築され、自他が未文化となる範疇でむしろ自己主張は強くなり、率直な意見を述べることができる。これはなぜかというと、主張することによってお互いの絆が揺れ動く可能性が低く、相手の信頼を失うリスクがない。つまり、「安全地帯」では日本人は十分自己主張できるのである。」
p.143-144 「
科目にもよるが、米国の大学では学生のクラスディスカッションでの発言を成績評価に加味している。そこで学生は授業に出席するときは、必ず発言しようと思い教室に入る。教員から知識やものの考え方を教わるだけではなく、学生同士でお互いの考えを開示し自己主張し、話し合う。すると、ひとつのテーマについてものごとを異なる視点からみることや、自分とは異なる立場からはどんなことがいえるのかを学ぶことができる。お互いの発言のなかから共通項をみつけたり、意見の相違があれば何を論拠としてそう主張できるのかを確認し合いながら「対話」する。「授業が終わって教室のドアを出るときに、お互いの考えが少し変わったらそれはいい授業だったのですよ」とある先生にいわれたことがある。
また、イギリスの学校教育では子どもが「話すことによって学ぶ」ことに焦点を当てて、熱心ん鍛えていることが報告されている。言語の発達は、コミュニケーション能力だけではなく論理的思考など知的能力の発達を促すことは疑うべくもないし、セルフ・エスティームの発達とも連関するので、子どもの発達のいつもの側面を同時に促進でき、実践的な教育のアプローチである。」