梅田望夫『羽生善治と現代』
羽生善治と現代 - だれにも見えない未来をつくる (中公文庫)
- 作者: 梅田望夫
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2013/02/23
- メディア: 文庫
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最近とっても興味があってフォローしている、将棋界について、梅田望夫さんが書かれた本。関西出張の行き帰りで読み始めて、熱中。いやー、楽しかったなあ。まさしく、想定読者だろうな、と思える感じだった。
将棋の場合「難しいんでしょ」「専門的な知識がないと見てもわからないんでしょ」とスポーツに比べて、敷居が高いと感じている方が多いように思います。確かに、将棋は難しいゲームです。しかし、それを楽しむのはちっとも難しくないのです。(中略)
将棋を指すのは弱くとも、「観て楽しむ」ことは十分できます。例えばプロ野球を見る時。「今のは振っちゃダメなんだよ!」とか「それくらい捕れよ!」。サッカーを見る時。「そこじゃないよ!今、右サイドが空いていたじゃんか!」(中略)言いながら見ますよね。それと同じことを将棋でもやってもらいたいのです。「それくらい捕れよ!」と言いはしますが、実際に自分がやれと言われたら絶対にできません。「しっかり決めろよ!」も同じで自分では決められません。将棋もそんなふうに無責任に楽しんでほしい。(『頭脳勝負』ちくま新書、2007年)これは、将棋界の若きリーダー、渡辺明竜王の言葉である。
私はこの彼の言葉に深く共感した。
将棋の未来を切り開いていくためには、「指さない将棋ファン」「将棋は弱くても、観て楽しめる将棋ファン」を増やさなくてはいけない。顕在化しなければならない。ベテランたちよりもうんと長期的な視点でモノを考えて行かなければならない若手棋士たちのそんな問題意識は、渡辺さんや、彼の周囲の棋士たちのなかには横溢しているのである。私も微力ながら、そのお手伝いをしようと思っている。(p.61-62)
そうだよね、たしかにそうだ。僕は「指さない将棋ファン」になりたいなあ、と思った。サッカー、上手ではないけれど、観るのは大好きだもんなあ。これと同じようになればいい、ということだものね。
「将棋が強い」とはいったい何か。突き詰めて言うとそれは、将棋のある局面での最善手や好手を、誰とも相談せず、何も見ずに、自分の頭で思いつくことができる、ということである。だから将棋が強い人は、将棋を観ながら、自分の頭の中でああでもないこうでもないと考えて楽しむことができる。そしてそうなるためには、たくさん将棋の勉強をして、実戦でたくさん練習しなければならない。
しかし、将棋を観て楽しむために必要最小限のハードルはもっと低い。将棋のある局面の最善手や好手やその先の変化手順を、自分で思いつけなくても、それらを教えてもらったときにその意味が理解できればいいのである。
ただ、それには一つだけ条件がある。一局の将棋がただ棋譜として提供されるのではなく、たくさんの言葉が付随して提供されなければならない、ということだ。テレビ放送やネット中継であれば実況解説だし、新聞や雑誌や本であれば観戦記や将棋解説といった、将棋を語る豊潤な言葉が必要なのである。逆にそれさえ充実すれば、「将棋を観る」ことができる人の数は「将棋を指して強くなれる人」の潜在数を大きく上回る。そしてそうなったときにはじめて、「野球をやる」に対する「野球を見る」と、「将棋を指す」に対する「将棋を観る」とが、近い意味になってくるはずなのである。(p.102)
そうなの!そうなの!どうやったら楽しめるのかがわからないのですよ…。「どう動かすのが定石なのか」がわかってれば、もっと楽しめそうだな、といつも思ってる。でも、それが楽しめるようになったら、日本で最高レベルの知的なやりとりを楽しめるようになるよね。
この本では、当時の将棋界の四人の最高知性、羽生善治名人、佐藤康光棋王、深浦康市王位、渡辺明竜王が登場する。この四人がそれぞれに個性的で、とっても素晴らしい。渡辺明竜王は、ちょっと世代が下だけれども、シリコンバレーの俊才と同じ雰囲気がある、という評は梅田さんらしいなあ、と思ったり。
2008年から2009年にかけて、将棋界の四人の最高知性、羽生善治名人、佐藤康光棋王、深浦康市王位、渡辺明竜王と過ごした時間があまりにも豊穣だったため、私は期せずして「超一流とは何か」を考え続けることになった。
現代将棋においては、才能に恵まれるだけでは十分でなく、そのうえで、尋常ではない努力を長期にわたって持続できる人しか、トップには到達できなくなった。これも現代社会の在りようを象徴しているように思う。
私は、異なった個性を持つ四人から、「対象(将棋)への愛情の深さゆえの没頭」という共通の基盤の上に、それぞれ独特の「際立った個性」が加味されてこそ、「超一流」への壁が超えられるのだと学んだ。そのエッセンスを一言でまとめれば、「超一流」=「才能」×「対象への深い愛情ゆえの没頭」×「際立った個性」
という方程式になる。
方程式右辺の三つ目の要素である「際立った個性」についてだけは四人それぞれ異なり、羽生の場合は、科学者のような「真理を求める心」。佐藤は、少年のような「純粋さ」。深浦は、内に秘めたすぐれた「社会性」。そして渡辺は、同時代の世界中の優秀な若者たちにも共通する「戦略性」。そこが際立って個性的だと思った。そしてこの個性の違いにこそ、人間の面白さがしっかりとうつしだされていた。
「知の高速道路」が敷設され、癖のない均質な強さは、昔に比べて身につけやすくなった。しかし「高速道路を走り切ったあとの大渋滞」を抜けるには、加えてこれらの三要素が不可欠なのだ。特に「際立った個性」の強さが、最後の最後の紙一重の差を作り出す源となるのである。そしてそれは、どんな分野にもあてはまる普遍性を有する。私は、これからの時代の「超一流」を目指すとは、突きつめればこういうことなのではないかと思うに至ったのである。(p.285-286)
伝統を持つ将棋界もこんなに変わっているんだな、というのをびっくりすると共に、それをどう楽しめるのかを一生懸命考え始めている自分にびっくり。棋士って、とっても人間臭く、とっても知的で魅力的だ。
以下、メモ。
p.61-62「
将棋の場合「難しいんでしょ」「専門的な知識がないと見てもわからないんでしょ」とスポーツに比べて、敷居が高いと感じている方が多いように思います。確かに、将棋は難しいゲームです。しかし、それを楽しむのはちっとも難しくないのです。(中略)
将棋を指すのは弱くとも、「観て楽しむ」ことは十分できます。例えばプロ野球を見る時。「今のは振っちゃダメなんだよ!」とか「それくらい捕れよ!」。サッカーを見る時。「そこじゃないよ!今、右サイドが空いていたじゃんか!」(中略)言いながら見ますよね。それと同じことを将棋でもやってもらいたいのです。「それくらい捕れよ!」と言いはしますが、実際に自分がやれと言われたら絶対にできません。「しっかり決めろよ!」も同じで自分では決められません。将棋もそんなふうに無責任に楽しんでほしい。(『頭脳勝負』ちくま新書、2007年)
これは、将棋界の若きリーダー、渡辺明竜王の言葉である。
私はこの彼の言葉に深く共感した。
将棋の未来を切り開いていくためには、「指さない将棋ファン」「将棋は弱くても、観て楽しめる将棋ファン」を増やさなくてはいけない。顕在化しなければならない。ベテランたちよりもうんと長期的な視点でモノを考えて行かなければならない若手棋士たちのそんな問題意識は、渡辺さんや、彼の周囲の棋士たちのなかには横溢しているのである。私も微力ながら、そのお手伝いをしようと思っている。」
p.102「
「将棋が強い」とはいったい何か。突き詰めて言うとそれは、将棋のある局面での最善手や好手を、誰とも相談せず、何も見ずに、自分の頭で思いつくことができる、ということである。だから将棋が強い人は、将棋を観ながら、自分の頭の中でああでもないこうでもないと考えて楽しむことができる。そしてそうなるためには、たくさん将棋の勉強をして、実戦でたくさん練習しなければならない。
しかし、将棋を観て楽しむために必要最小限のハードルはもっと低い。将棋のある局面の最善手や好手やその先の変化手順を、自分で思いつけなくても、それらを教えてもらったときにその意味が理解できればいいのである。
ただ、それには一つだけ条件がある。一局の将棋がただ棋譜として提供されるのではなく、たくさんの言葉が付随して提供されなければならない、ということだ。テレビ放送やネット中継であれば実況解説だし、新聞や雑誌や本であれば観戦記や将棋解説といった、将棋を語る豊潤な言葉が必要なのである。逆にそれさえ充実すれば、「将棋を観る」ことができる人の数は「将棋を指して強くなれる人」の潜在数を大きく上回る。そしてそうなったときにはじめて、「野球をやる」に対する「野球を見る」と、「将棋を指す」に対する「将棋を観る」とが、近い意味になってくるはずなのである。」
p.213-214「
私が渡辺と知り合ったのは一年半ほど前のことだったが、将棋ということからまったく離れて、渡辺明という若者を知って思ったのは、世界中の高校や大学を出てアメリカの一流大学に留学してくる、主に科学分野の俊才たちの雰囲気に、彼がとてもよく似ているということだった。アメリカの一流大学というのは、たとえばカリフォルニア州で数学ランキングのトップだった高校生がハーバード大学に進学したら、そこにはインドの一位と中国の一位とハンガリーの一位も来ていて、その日からライバル同士で熾烈な競争が始まるといった世界である。
各国でトップクラスの実績を上げてアメリカにやってくる若者たちと渡辺に共通するのは、自由闊達で、合理的なものの考え方をし、強気で、鼻っ柱が強くて、頭の回転が速く、早口でよくしゃべり、開放的で、思ったことをどんどんオープンにしていく、といったところである。そして、子ども時代から特別な才能を認められた代償に厳しい競争環境の中で育ち、「才能って結局は努力のことだよな」と言い切れるだけの精進を続けてきており、そのことが深い自信の拠り所になっている。だから自分に厳しい分だけ他人にも厳しく、他者を評価するときの表現が、若さゆえに辛辣になりやすい。そういうところも本当によく似ているのだ。」
p.285-286「
2008年から2009年にかけて、将棋界の四人の最高知性、羽生善治名人、佐藤康光棋王、深浦康市王位、渡辺明竜王と過ごした時間があまりにも豊穣だったため、私は期せずして「超一流とは何か」を考え続けることになった。
現代将棋においては、才能に恵まれるだけでは十分でなく、そのうえで、尋常ではない努力を長期にわたって持続できる人しか、トップには到達できなくなった。これも現代社会の在りようを象徴しているように思う。
私は、異なった個性を持つ四人から、「対象(将棋)への愛情の深さゆえの没頭」という共通の基盤の上に、それぞれ独特の「際立った個性」が加味されてこそ、「超一流」への壁が超えられるのだと学んだ。そのエッセンスを一言でまとめれば、
「超一流」=「才能」×「対象への深い愛情ゆえの没頭」×「際立った個性」
という方程式になる。
方程式右辺の三つ目の要素である「際立った個性」についてだけは四人それぞれ異なり、羽生の場合は、科学者のような「真理を求める心」。佐藤は、少年のような「純粋さ」。深浦は、内に秘めたすぐれた「社会性」。そして渡辺は、同時代の世界中の優秀な若者たちにも共通する「戦略性」。そこが際立って個性的だと思った。そしてこの個性の違いにこそ、人間の面白さがしっかりとうつしだされていた。
「知の高速道路」が敷設され、癖のない均質な強さは、昔に比べて身につけやすくなった。しかし「高速道路を走り切ったあとの大渋滞」を抜けるには、加えてこれらの三要素が不可欠なのだ。特に「際立った個性」の強さが、最後の最後の紙一重の差を作り出す源となるのである。そしてそれは、どんな分野にもあてはまる普遍性を有する。私は、これからの時代の「超一流」を目指すとは、突きつめればこういうことなのではないかと思うに至ったのである。」