勝田政治『廃藩置県 「明治国家」が生まれた日』

廃藩置県―「明治国家」が生まれた日 (講談社選書メチエ)

廃藩置県―「明治国家」が生まれた日 (講談社選書メチエ)


電子教材の教材研究のために読んでみた。言葉としてはよく知っている「廃藩置県」ですが、ものすごいのね…。廃藩置県を断行したのは大久保利通。廃藩置県を決意した時には、こんなふうに日記に書き残したらしい。

篤と熟考今日のままにして瓦解せんよりは寧ろ大英断に出て瓦解いたしたらん

国家としての悲壮さがあるなあ、と。廃藩置県をメインテーマにしてあるだけあって、いろいろなエピソードも盛り込まれていておもしろい。藩を県にして、送り込まれた県参事には、基本的には同県出身者を置かないようにしていたけど、大久保は自身の出身県・鹿児島藩には同県出身者を置いていた*1。島津の殿様に気を使って、ね。でも、山口県は長州藩出身者じゃなくて、旧幕臣を置いたのだそうな。なんだか陰謀大好きで陰湿なイメージのある長州ですが*2、こういうところでの奇妙な潔さとか好きだなあ。
維新の三大改革といわれる学制・徴兵令・地租改正をはじめとする近代化政策が、岩倉使節団の巡遊中(約二年間)に留守政府の手によってほとんど実施された、というのもすごい。各省(文部省・兵部省・大蔵省)が独自に功を競うように。そんなことできんのかよ!?って感じじゃない?
しかも、教材研究のついでに学制についても調べてみたら、文部科学省のサイトに紹介文が書かれていた。

今日ある小学校26,000校。明治8年において開設されていた小学校が24,303校。すげー…。
文科省のサイトで読める「学制百年史」でも、「文部省第三年報によれば、すでに明治八年において二万四、三〇三校の小学校が開設され、そこに一九二万八、一五二人の生徒を入学させているのである。この小学校の総数は今日の小学校総数約二万六、〇〇〇校(本校分校合計数)と大差がないのであって、この国土に必要な数の小学校はだいたいにおいてこのころすでに成立していたと見られる。

「学制を定めた」という文章は習ったけど、こういうことも先生にちょっと説明してもらったら、「すげー!」って思ったかな。それとも、「ふーん」だったかな…とか考えちゃう。
以下、メモ。

p.203「
旧藩名の消滅は、宮武が説くように「朝敵藩」や「曖昧藩」にたいする政府の懲罰的処置とみることはできない。
県(地方官)が新たな県政を進めるにあたって、旧藩名をそのまま使うことは障害となると判断し、人心一新をはかるために旧藩名の抹消を提起し、政府がこれに応えたのであった。旧藩時代の「旧習」を脱ぎ捨て、開化政策を推進しようという意気込みの発露である。このようなことから、政府内部での藩名消去も旧習一掃の意図にもとづいてなされたものと考えられる。」

p.206「
(新たに任命された県参事には)少数ではあるが、同県出身者が任命された県もある。鹿児島・高知・佐賀・熊本・鳥取・岡山・福井・和歌山・名古屋・静岡県などである。西南雄藩をはじめとする大藩に置かれた県に多い。旧藩勢力との妥協を余儀なくされたのである。
こうしたなかで、山口県の人事が目を引く。同県には中野梧一が参事に就任している。中野は、旧幕臣であり、箱館五稜郭の戦いで、榎本軍の一員として新政府軍と戦った経歴を持っている。その後、四年九月に大蔵省に入り、井上馨長州藩出身)の知遇を得る。井上は大蔵次官として当時地方官人事に携わっており、中野は井上によって登用されたといわれているが、井上の意図については不明のことが多い。
新任地方長官のもとで府県庁官員の人選がはじまるが、その特徴はつぎのようなことであった。東北・中部・関東地方では旧藩精力との断絶傾向があり、とくに「朝敵」藩の地域にいちじるしい。これとは対照的に、中国・四国・九州地方では旧藩精力との継続性が強く、とくに大藩を基に形成された県では旧藩出身者が多く登用されている。
政府は、維新政権により廃藩に追い込まれた「朝敵」藩や中・小藩にたいし、旧藩の体質を消し去るべく人事を強行したのでった。」

p.217「
王政復古クーデター・版籍奉還・廃藩置県という、明治中央集権国家が誕生する節目で重要な役割を演じたのが大久保利通であった。その大久保が、廃藩置県を最終的に決断したときに日記に書き残した一文は、廃藩置県の意味をもっとも象徴的に示していると筆者には思えるのである。
(略)
篤と熟考今日のままにして瓦解せんよりは寧ろ大英断に出て瓦解いたしたらん

大久保は、廃藩置県直前の維新政権を「瓦解」寸前とみなし、「大英断」である廃藩置県に踏み出したのである。」

p.225-227「
維新の三大改革といわれる学制・徴兵令・地租改正をはじめとする近代化政策は、この巡遊中(岩倉使節団)の約二年間に留守政府の手によってほとんど実施されたのである。それも、各省が独自に功を競うように。
文部省(長官大木喬任)は、四年一二月に学制取調掛十二名を任命し、翌五年四月には学制草案を完成させ、八月に学制を発布した。この間わずか八ヶ月という早業であった。西洋文明化による国家の富強をはかるという国家的課題のもと、国民皆学をめざしたのが学制である。(略)
兵部省(長官欠員、次官山県有朋)は、四年一二月に山県らが四民平等主義による徴兵制度採用の建議を行う。そして、兵部省が陸・海軍両省に分離された後の六年一月に徴兵令が制定される。士族軍隊を否定し、欧米諸国(とくにフランス)の軍制をモデルとして、国民皆兵をめざしたものである。(略)
大蔵省(長官大久保利通は岩倉使節団に参加、次官井上馨)は、四年九月と一○月に大久保・井上の連名で、土地制度と租税制度の改革をめざして土地売買の自由、地券の発行、地価への租税賦課という基本方針を建議する。そして、五年二月に土地売買の自由と地券発行が決まり、六年七月に地租改正法が制定される。(略)
三大改革以外でも司法省(長官江藤新平)が、司法権の独立という近代的司法制度の実現をはかって、五年八月から地方裁判権を地方官から吸収・移管するための府県裁判所の設立を開始する。その他、実現はしなかったが大蔵省が士族の家禄を廃止する秩禄処分を計画し、左院(議長後藤象二郎)では国会開設や憲法制定に着手しはじめる。廃藩置県後、西洋化(近代化)へ向けて急発進したのである。」

p.227「
こうした近代化政策を進めた留守政府の参議大隈重信は、後年「前後を顧慮する暇もあらせず、彼の改革、此の革新と、短兵急に断行したる…云はば呆気に取られて茫然たる間に、其実施を見るに至り」(『大隈伯昔日譚』)と、その経緯について述べている。廃藩置県後は漸進的に実施する方針であったが、実際は大隈の述懐にあるように、現状を深く顧みる余裕もなく、西洋化(近代化)の至上課題のもと、諸改革が急速に威圧的に断行されたのである。」

*1:このへん、司馬遼太郎翔ぶが如く』に詳しく書かれていた。まあ、鹿児島だけでないらしいけど。

*2:僕の中で、木戸孝允山県有朋のイメージが悪くて…