佐伯啓思『反・幸福論』
- 作者: 佐伯啓思
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2012/01/17
- メディア: 単行本
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佐伯啓思さん、何か悟っちゃったかな?と読み始めて前半は思ったのですが、後半はなかなか真摯だな、と思いました。脱原発をするかどうか、ということについて「これはテクニカルな政策的課題ではない」と言い、これは「価値の問題」と伝える。
脱原発は、原発はもうこりごりだ、というただの街角のつぶやきではなく、脱成長路線へと価値転換をはかる、という覚悟の問題です。(p.201-202)
国民のほとんどが、「敗戦後体制」(=「平和憲法」「アメリカニズム」*1「経済成長」)に満足していて、そこに問題があると思っていないので、これをいじるとなると、大衆の支持を失うことは間違いない。しかし、この3点セットがもはや機能不全に陥っているのが問題である、と言う。ここを認めていって、経済成長を手放して、不便な生活を我慢できるのか。それによって経済は悪くなるだろうし、社会も不安定になるかもしれない、っていう「暗澹たる未来図」を描けるのか、ってことですよね…。僕個人としては、「そんなきちんと扱えない技術=原発」はリスキー過ぎて、そのために多少生活がマイナスになってもいいな。廃炉のための技術を日本らしく培っていってほしいと思うよ。日本人は、きっと脱原発後の不便さにもびっくりするほど適応できるんじゃないかと思う。そこに期待したいな、と思うけどなあ。
なぜなら本当の問題は、自民か民主か、あるいは政治主導か官僚主導か、という点にあるのではなうわれわれ自身の内部にあるからです。われわれの内なる「ひねくれた権力欲」にあるからです。
にもかかわらず我が身に振りかかる不利益や不満を、どうもわれわれはあまりに性急に政治のせいにしてしまう。(p.237)
自分たちでしっかり考えて、決める、っていうことが大事。当たり前のことを、しっかり書くのが「保守」*2かなあ、と佐伯啓思さんを、「やっぱすげー!」と思った本でした。
以下、メモ。
はじめに「
日本の伝統的精神のなかには、人の幸福などはかないものだ、という考えがありました。(略)現世的で世俗的で利己的な幸福を捨てるところに真の幸せがある、というような思考がありました。それがすべていいとは思いませんが、かつての日本人がどうしてそのように考えたのか、そのことも思いだしてみたいのです。」
p.34-35「
「幸福」ということでいえば、「善きもの」とは何かと自らに問い、そのための「徳」を積むことこそが「幸福」だということです。果てしなく「自由」を求め、「利益」や「権利」を求めることではありません。「自由」「利益」「権利」の先に「幸福」があるのではありません。「自分のやりたいことを自由にやる」ことが幸福なわけでは決してないのです。
私はおおよそこのサンデルの「アリストテレス主義」には賛同できます。しかしまた、われわれ日本人にとって、アリストテレス主義とはあまりに遠い存在である、という気もします。本当のことをいって、アリストテレスがどんな顔つきで、どんな調子で「徳」や「善」といったのか、容易には想像がつかないのです。それがわからなければ、どうも彼のいう「徳」や「善」も本当にはわかりません。」
↓
「それにしても、興味深いのはサンデルの正義論がどうしてこの日本でかくもベストセラーになっているのかでしょう。そもそもアリストテレス的伝統などというものに、それほど多くの日本人が関心を持つものなのでしょうか。
少し悪意を持ってみれば、誰もサンデルの述べているメッセージなどにはさしたる関心もなく、ハーバードの大教室で満員の学生を釘づけにして次々と議論を繰り出すサンデル先生のカッコよさに拍手しているだけかもしれません。たぶんそうでしょう。」
p.49-55
日本の「ふるさと」という意識:
霊力を背景にして、村々には神社があり神社を中心にして共同体があった。神社にはご神木やお稲荷さんがあり、この霊力が共同体を守っていると考えられていた。
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神という超越的な力への畏怖によって共同体の秩序が維持されなければならなかった。
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「神が敗れた」ということは、山里から神々もいなくなった、ということ。折口が述べたような、伊勢神宮や出雲大社に祭られた『古事記』の神々だけではなく、村々にいた土着の名もない神々の敗北でもある。端的にいえば、「ふるさと」の敗北であり「都会」の勝利だった。自然のうちに宿る神々によって守られてきた村々の敗北であり、都会の合理主義、近代主義の勝利だった。
↓
こうして、戦後の日本人は、村を棄て、共同体を打ち壊し、田舎から都会へと民族移動を開始した=近代化、都市化
↓
神々の敗北は、われわれから畏れを知る心をなくしてゆき、人は自由と利益と利便を求めてもっぱら経済へと関心を移していった。
=田舎も「経済的な利益」に巻き込まれていく。
p.88「
「家庭」にせよ「家族」にせよ、その実質は解体し、できるだけ名目的で形だけのものにし、別々の人格をもった個人の寄せ集めだということにしたのです。封建制度の象徴である「イエ」を解体するその刀で、勢いあまってというか、思慮足らずにというか、「家庭」や「家族」まで解体してしまった、ということです。」
p.94-95「
確かに家族生活をうまくやるのは大変に難しい。それは、社会にしては関係が近すぎるからにほかなりません。特に、父・母・子供(最近の言葉では、おとん、おかん、そしてボク)という戦後の核家族は関係が接近しすぎているために、他者性がわかりにくくなり、うまくやるのは大変に難しい。だからこそ、昔は、父や母や子供や祖父母などの関係に一定の枠をはめ、役割と距離によって関係が過度に接近することを防いでいたのです。それが「イエ」というものでした。だから、戦後の民主的家族になって、ある意味では昔よりかえって窮屈になってしまった。結果としてうまくいかない家族が続出するしかしその努力を最初から放棄して、家族を捨て広い社会へでればもっと自由で幸せになると思うのは大間違いなので、他者と親しく信頼を築くのはたいへんなことです。その努力の中から生活の知恵や処世も学ぶ。そのことをあらかじめ放棄して、放棄することによってより幸福な生活が待っているというのは虫が良すぎるわけです。」
p.137-138
福沢諭吉「人間蛆虫論」(『福翁百話』)
「だが、この世に生まれた以上は、蛆虫とはいえそれなりの覚悟が必要である。その覚悟とは何か。人生は戯れと知りながら、この一場の戯れを戯れとはしないでまじめに勤め、貧苦を去って富楽を求め、他人の邪魔をしないで自分の安楽を求め、50、70の寿命で満足し父母に仕え夫婦仲良く、子孫のことを考え、公益を考え、生涯ひとつの過失もないおうに心がけるのが蛆虫の本分である。いやこれは蛆虫のことではない。万物の霊としての人間だけが誇れるところである。ただ戯れと知りつつ戯れれば心は安く、極端に走ることはない。まわりの者がバカ騒ぎをしていてもひとりそれに混じることもないだろう。人間の安心法はおおよそこんなところにあるのだ。」(『福翁百話』(7)「人間の安心」)
p.199-202「
「原発」をかりに現代の技術文明の象徴だとすれば、脱原発は、この技術文明そのものをどう考えるのか、もっといえば、技術文明に依存したわれわれの「幸福」をどう考えるのか、という問題へつながってくるからです。
↓
・脱原発は長期にわたって電力使用レベルを落とすことになり、電力料金の値上げを容認することになる。
・企業からすればコスト上昇によって国際競争力を失うということ、消費者にとっては制圧レベルを低下させることを意味する。
↓
端的にいえば、グローバルな市場競争のさなかで経済成長を追求しようとすれば、できるだけ資源制約の少ない安定したエネルギー供給が不可欠だった。だから、世界中の国がリスクを承知で原発の方向を向いた。
その方向を、たいていの者は追認していた状態。日本のように製造業で国際競争をする国は、ともかく安くモノを作らなければどうにもならなかった。
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「だから、少々乱暴にいえば、われわれはたいへんに深刻な二者択一に直面してしまったのです。ひとつは、原発建屋の爆発によってわれわれの豊かさもふっとばされたと割り切り、もはやこれまでのような豊かさの追求は断念する、という方向。
もうひとつは、あくまでグローバルな市場競争のさなかでこれまで以上の豊かさを追求するためにより安全な原発を開発するという方向。この二つです。
これはテクニカルな政策的課題ではない。価値の問題なのです。脱原発は、原発はもうこりごりだ、というただの街角のつぶやきではなく、脱成長路線へと価値転換をはかる、という覚悟の問題です。
p.203-205「
果たして、日本人にその覚悟があるのか。正直いって、今、われわれはまったく決断できなくなっているのではないでしょうか。
原発はいやだ、だけどこの生活レベルは失いたくない。原発は危険だがどうも脱原発までは…。どちらへもゆけず決定不能な状況のなかでたたずんでいるように見えます。」
↓
リスボン大地震(1755年)
・キリスト教的な最善説を打ち砕いた。自然の圧倒的な力の前に恐怖し、その恐怖に打ち勝ち、自然の作用を解明し、法則を知ることで自然を支配するべく技術を使っていく、という近代的な世界観を作ってきた。
p.217-218「
ここに現代の「技術」の性格がある。それは、本来の「自然」が内蔵しているものの発現を手助けする「テクネー」ではなく、自然に対峙し、それを支配し、それに挑戦する。物理学が出てきたときに、それと結合した技術が「近代技術(テクノロジー)」という専門科学の一変種として、産業化を可能としたのです。
産業化によって、人は物的な富の蓄積を幸福だとみなし、技術によっていくらでも富を増進できるという技術信仰を生みだしました。これはまた、科学の専門主義への信仰とも軌を一にしているのです。ハイデガーは、今日(20世紀の中葉)、アメリカとソ連こそがその代表的な国で、このふたつの国は体制は違うけれど、本質は同じだと述べています。」
p.230-231「
民主党は「国民の意思」を政治に反映させる、といった。とすると「国民の意思」とは、「支配権力」への否定的で破壊的な意思だということになる。民主党を動かしたものは、この大きなしかし漠然とした「否」だったといってよいでしょう。
だがそうだとするとこれは深刻な問題です。われわれの政治の質が、根本的なところで「支配権力」を否定するという欲望によってしか動かない、ということだからです。
しかしただの「否」からは何も生まれて来ません。それは「支配権力」や「既得権益」や「守旧勢力」を批判はするでしょう。しかしその先に何も生み出しません。」
p.236-237
国民のほとんどは、「敗戦後体制」(=「平和憲法」「アメリカニズム」「経済成長」)に満足していて、そこに問題があると思っていない。
↓
これをいじるとなると、大衆の支持を失うことは間違いない。しかし、この3点セットがもはや機能不全に陥っているのが問題
↓
まずは、この暗澹たる未来図を思い描くしかない。
↓
なぜなら本当の問題は、自民か民主か、あるいは政治主導か官僚主導か、という点にあるのではなうわれわれ自身の内部にあるからです。われわれの内なる「ひねくれた権力欲」にあるからです。
にもかかわらず我が身に振りかかる不利益や不満を、どうもわれわれはあまりに性急に政治のせいにしてしまう。