下村湖人『論語物語』

論語物語 (講談社学術文庫 493)

論語物語 (講談社学術文庫 493)


仕事の関連で、論語やら孔子やらの本を濫読中。漢文の時間のときは、「めんどくさい」「説教くさい」とそんなに好きでなかった論語ですが、この『論語物語』だとやたらおもしろいです。エピソード形式で紹介してあるからでしょう。下の、「自らを限る者」の一節とか、耳が痛いです(苦笑)

「お前は、まだ心からお前自身の力を否定しているのではない。お前はそんなことをいって、わしに弁解をするとともに、お前自身に弁解をしているのじゃ。それがいけない。それがお前の一番の欠点じゃ」

以下、メモ。

p.5

論語』は「天の書」であるとともに「地の書」である。孔子は一生こつこつと地上を歩きながら、天の言葉を語るようになった人である。天の言葉は語ったが、彼には神秘もなければ、奇蹟もなかった。いわば、地の声をもって天の言葉を語った人なのである。
彼の門人たちも、彼にならって天の言葉を語ろうとした。しかし彼らの多くは結局、地の言葉しか語ることができなかった。なかには、天の響きをもって地の言葉を語ろうとする虚偽をすら、あえてする者があった。そこに彼らの弱さがある。そしてこの弱さは、人間が共通にもつ弱さである。われわれは、孔子の天の言葉によって教えられるとともに、彼らの地の言葉によって反省させられるところが非常に多い。


p.62
■自らを限る者
冉求いわく、子の道を説ばざるにあらず、力足らざればなりと。子いわく、力足らざる者は中道にして廃す。今女(なんじ)は画(かぎ)れりと。(雍也編)


「お前は、自分で自分の欠点を並べたてて、自分の気休めにするつもりなのか。そんなことをする隙があったら、なぜもっと苦しんでみないのじゃ。お前は、本来自分にその力がないということを弁解がましくいっているが、ほんとうに力があるかないかは、努力してみた上でなければわかるものではない。力のない者は中途で斃れる。斃れてはじめて力の足りなかったことが証明されるのじゃ。斃れもしないうちから、自分の力の足りないことを予定するのは、天に対する冒涜じゃ。なにが悪だといっても、まだ試してもみない自分の力を否定するほどの悪はない。それは生命そのものの否定を意味するからじゃ。しかし…」
と、孔子は少し声をおとして、
「お前は、まだ心からお前自身の力を否定しているのではない。お前はそんなことをいって、わしに弁解をするとともに、お前自身に弁解をしているのじゃ。それがいけない。それがお前の一番の欠点じゃ」


p.91
■大廟に入りて
子いわく、学んで思わずばすなわち罔し。思うて学ばずばすなわち殆しと。(為政編)
子いわく、吾かつて終日食わず、終日寝ねず、以て思う。益なし。学ぶに如かざるなりと。(衛霊公編)


「学問にたいせつなことは、学ぶことと考えることだ。学んだだけで考えないと、道理の中心がつかめない。だからいつも行き当たりばったりだ。ちょうど真っ暗な部屋で、柱をなでたり、戸をなでたりするようなもので、個々の事柄を全体の中に統一して見ることができないのだ。むろん考えただけで学ばないのもいけない。自分の主観だけにとらわれて、先人の教えを無視するのは、ちょうど一本橋を渡るように危ういことだ。向こうまで行きつかないうちに、いつ水の中に落ちこむかもしれたものではない。事柄によっては、いくら考えてもなんの役にも立たないことさえあるのだ。
いつだったか、私は、食うことも寝ることも忘れて一昼夜も考えこんだことがあるが、なにひとつ得ることがなかった。そんな時、古聖人の残された言葉に接すると、いっぺんに道理がわかるのだ。とにかくどちらも軽んじてはいけない。学びつつ考え、考えつつ学ぶ、これが学問の要諦だ。ところでお前は、そのどちらもまだ十分でない。それも、結局、お前に敬しむ(つつしむ)心がないからではないかね。」


p.224

子路がいった。
「君子にも行き詰まるということがありましょうか」
「行き詰まる?」
孔子はちょっと考えた。しかしおだやかに答えた。
「それはむろん君子にだってある。しかし君子は濫れる(みだれる)ことがない。濫れないところに、おのずからまた道があるのじゃ。これに反して、小人が行き詰まると必ず濫れる。濫れればもう道は絶対にない。それがほんとうの行き詰まりじゃ」