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内田樹『狼少年のパラドクス ウチダ式教育再生論』

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論


ひさしぶりに内田先生の本を。神戸女学院大学で、大学の学事とかもバリバリやっているんだなぁ。今まで読んだ内田先生の本とは少し違ってていいかも。
兵庫県立柏原(かいばら)高校「進路探求WEEK-ほんとうの『知』に出会う』に招かれた話とかも出ているのだけど、こういうのいいなぁ。こういうのをしてくれる高校にいれば幸せよね。
そして、多くの先生方に響いて欲しいな、と思ったのは以下の言葉。

教える側が教わる側の知的ポテンシャルに対する期待と敬意を失ったら、教育はもう立ち行かない。(p.141)

そう、教える側が期待と敬意を失ってしまっていたら、ぜったいそれは教わる側に伝わってしまうと思う。そして、関係が立ち行かなくなってしまう。
その他にも、いろいろと使えそうな内容多数。以下、メモ。

p.12
(ジャーナリストも教育評論家たちも)

教育に関しては何を言っても誰からも効果的な反撃がなされないことがわかっている


p.13

このままの状態が続いてゆけば、十年後に日本社会は「漢字が読めない、四則計算もできない、アルファベットも読めない、学ぶということの意味がわからない、労働するということの意味がわからない」大量の「元・子ども」を抱え込むことになるだろう。それは社会的能力を欠いた彼ら自身にとっても不幸なことであるが、それ以上に、彼らを保護するために莫大な社会的コストを要求される国民全体にとっても不幸なことである。(略)
「学ぶ」ことができない、「学ぶ」ということの意味がわからない子どもたちがいま組織的に作り出されている。家庭でも、学校でも。しかし、それは子どもたち自身の責任ではない。


p.38

親や教育者自身が、「みんなと同じであること」にはたいした意味がない、ということを身を以て子どもに示すしかない(もちろん「たいした意味がない」だけであって「まったく意味がない」わけではない。若い人はそのへんを勘違いしないようにね)。


p.42-43

私は「こうやってばりばり勉強していれば、きっといつか『いいこと』がある」という未来予測の確かさに支えられて勉強していたわけではなく、「こうしてばりばり勉強できるという『いいこと』が経験できるのは、いまだけかも知れない」という未来予測の不透明性ゆえに勉強していたのである。学問研究というのは、わりと「そういうもの」ではないかと思う。
例えば、学徒出陣で応召した学生たちの中には、入営の直前まで専門書を手放さなかった者がたくさんいた。
それはその専門研究が軍隊で大いに役立ち、彼の昇進や延命に資することが期待されていたからではない。むしろ、そのような知的活動の価値が軍隊では顧みられないことが確実であるがゆえに、知的渇望が亢進したと考える方がロジカルだろう。


p.65
兵庫県立柏原(かいばら)高校「進路探求WEEK-ほんとうの『知』に出会う』
→おもしろい試みだと思う
http://www.hyogo-c.ed.jp/~kaibara-hs/


p.84

古来、胆力のある人間は、危機に臨んだとき、まず「ふだん通りのこと」ができるかどうかを自己点検した。まずご飯を食べるとか、とりあえず昼寝をするとか、ね。(略)
状況がじたばたしてきたときに、「ふだん通りのこと」をするためには、状況といっしょにじたばたするよりもはるかに多くの配慮と節度と感受性が必要だからである。人間は、自分のそのような能力を点検し、磨き上げるために「危機的な状況」をむしろ積極的に「利用」してきたのである。


p.141

教える側が教わる側の知的ポテンシャルに対する期待と敬意を失ったら、教育はもう立ち行かない。


p.156-157

「勝ち犬」量産システムに身を置くということは、逆に言えば、その「勝ち犬」たちを自分の「サクセス」のめやすとして採用せざるを得ないがゆえに、「不充足感」に苦しむ可能性が他の場所よりも高いということである。不充足感につきまとわれている人間は「いまの自分の正味の能力適性や、いまの自分が組み込まれているシステムや、いまの自分に期待されている社会的役割」をクールかつ計量的にみつめるということがなかなかできない。
それは、言い換えれば、「分相応の暮らしのうちに、誇りと満足感と幸福を感じる」ことがなかなかできない、ということである。人生の達成目標を高く掲げ、そこに至らない自分を「許さない」という生き方は(ごく少数の例外的にタフな人間を除いては)、人をあまり幸福にはしてくれない。
あまり言う人がいないから言っておくが「向上心は必ずしも人を幸福にしない」。幸福の秘訣は「小さくても、確実な、幸福」(村上春樹)をもたらすものについてのリストをどれだけ長いものにできるか、にかかっている。


p.186
学術論文について

その主題を「山」だとすると、「登山のためのガイドマップ」のようなものですよね?最寄り駅はどこで、どんな装備が必要で、山頂まではどれくらいかかって、どこに難所があって、どこに山小屋があって・・・。
そういうことがきっちり書いてあって、そこに行ったことのない人でも、何となく「こういうふうにすれば山頂にたどりつけるのか…」がわかるし、山頂から見える景色も何となく想像ができて、読んでいるうちにわくわくするようなものが「よいガイドマップ」ですね。
そうでしょう?卒論を書くときにあなたが読みたくなるのも、「そういう論文」のはずです。

この主題はどのような重要性を持つのか=山の高さとか谷の深さ
この主題を考究するためにたどるべき道筋=先行研究 にあたる


p.188
卒論研究計画書
1.研究テーマ
2.なぜあなたはその研究テーマを選んだのか
3.そのテーマについて、これまでどんなものを読んだり調べたりしたことがあるか(=先行研究の吟味)
4.それらのものを読んだり聞いたりしてきて、「なんか、違う」とか「もっと知りたい」と思ったこと
5.他の人の話を読んだり聞いたりして感じたこの「なんか足りない」「どこか違う」という感覚を時間をかけてていねいに観察する


p.190
論文とは自分のために書くものじゃない

論文というのは「贈り物」である。私たちが先人から受け取った「贈り物」を次の世代にパスするものである。


p.196
都立日比谷高校の「発表授業」
生徒が2人1組になって100分間の授業を担当する


p.254-255

学力低下の主たる原因が学習指導要領やゆとり教育にはないことについては私も同感である。生徒たちは同学齢集団で競争する。だから、同学齢集団全体の学力が下がっても偏差値とは関係がない本人からしてみれば同学齢集団の学力がどんどん下がれば下がるほど、少ない勉強でいい学校に行けるわけだから、その点では全員共犯なのである。同学齢集団全体の学力が下がってゆけば、わずかな努力だけで難関校に合格できる。だから、費用対効果を考えたら、同世代の学力を下げるのが受験的には効率的なのである。


「これは教師の立場からも痛感する。10年前といまを比べると、授業の準備に要する時間が全く違う。授業準備がほとんど要らない。学生がむずかしい質問をしてきて、教壇で右往左往する可能性がもうないのである。以前はゼミの発表テーマが示されると、事前に相当下調べをして、学生に何を質問されても答えられるようにしておいた。だが、いまでは学生たちとの知識量の差があまりに圧倒的なので、学生に知的威信を脅かされるというストレスはなくなった。だから、「学生の学力が下がった」と文句を言っているけれど、自分の知的優位を脅かすような学生がいなくなったことから精神的な安定を得ている教師は少なからずいるはずである。