文系のための数学教室

文系のための数学教室 (講談社現代新書)

文系のための数学教室 (講談社現代新書)


数学、嫌いだったなぁ。できていた記憶がないもん(笑)でも、社会に出れば数学ってたくさん使うんですよ!予算組みとかさ、シミュレーションとかさ、待ち行列とかさ…。数学的思考ができれば、ちょっとは違うかな、と思うことのなんと多いことか…。ということで、勉強のために読んでみた。

以下、メモ。

p.59-60

数学は常に、真偽のわからない命題を調べ、挑み、そしてその真偽をつきとめるのを仕事としています。だから、真偽のわかっている命題の論理的なつながりなどにはほとんど興味がないでしょう。真偽表を使って論理を展開するのは、人間の思考法からほど遠く、しかも日常的推論はおろか、数学にさえ有益な情報をもたらしてくれないのです。
そんなわけで、わたしたちが着目すべきなのは「推論」というものです。つまり、「論理というのは推論をつなげていくための手続きなのだ」という見方をすることが大切なのです。数学の証明については言うまでもなく、日常の議論においても、「まず、Pだろ、だとすると、Qになるじゃないか、とすればRのはずでしょ…」という具合に、「推論をつないでいく」のが普通です。このような行為こそを私たちは通常、「論理」だとイメージしているのではないでしょうか。
(略)
推論の中では、「A ならば B」というのは、「AからBを導いていい」ということを意味します。つまり、自分の展開している議論に「A」と「A ならば B」が登場したら、「B」をそこにつなげていい、そいうことが手順として認められている、ということなのです。それが「ならば」の持つ推論規則です。


p.62

論理を扱う立場は2つあります。一つは、論理文を構成する個々の文の真偽に立ち入って考える立場で、「セマンティックス(semantics)」と呼ばれます。それに反して、文の内容や真偽と無関係に、形式的な推論の仕方だけに注目する立場を「シンタックス(syntax)」といいます。
いままでお話ししましたように、わたしたたいが科学を研究したり、社会のあり方について議論したり、日常会話の中で自分の意見を述べたりするときに重要なのは、シンタックスのほうです。ものごとの真偽というのは、わからないことのほうが多いし、わからないからこそ議論するわけだし、さらには主義主張や思想信条や生活観によって意見が分かれていたりするからです。世の中でよく、相手の話している内容が、自分の主義主張と合わないことを理由に、「君の議論は論理的じゃない」などと相手を非難する人がいますが、このような人は、セマンティックな立場に、つまり個々の真偽にこだわるあまり、相手の推論の正しさまでをも否定してしまう混乱状態に陥っているのです。こういう人はシンタックスな立場をきちんと勉強しなければいけないでしょう。

※日本の論理教育で必要なのは、「シンタックス」の方。
 こちらを活用して教えている教育事例が少ない、んだそうだ。


p.78
ストルネイカーの試み
=「論理学と人間の認識を近づけようという試み」
・論理文の真偽を、自称の確率に対応させる
・論理文「そのカードはスペード」は真偽はそのままでは判断できない。
 ここに確率的な判断「1/4の確率で真である」というものを入れる
・「ならば」の論理文を条件付確率に対応させる
・人間の論理認識に近い形
・デビッド・ルイスによって反論が提出済み


p.93
数学なんて役に立たないよ、という議論はよくされる:

生きてきて数学が役に立ったのは、曲がって行くよりまっすぐ行ったほうが近い、ということだけだが、そんなことならイヌ・ネコでも知っている

(作家・曽野綾子


p.133-134

X、Y、Zという3人の個人について、おのおの内面的な好みを表す選好がそれぞれ推移律という合理性を持っていても、3人の投票によって決まる「集団の選好」が推移律を持たない場合がある、ということです。つまり、「個人の合理性」が投票を通じて「社会の合理性」へと反映されるとは限らないわけです。

#これ、ゲーム理論とかの勉強で出てきた気がする。
#ここでは事例までは出しませんが、ググるか、本を探せば出てくるだろう。
#子どもたちに実際に推移律の矛盾について体験させてもいいな。


p.141
【アローの一般可能性定理】
個人の選好から集団の選好を決定する方式(関数)で、決定された集団の選好が以下の5条件を満たすような方法(関数)は存在しない

※条件I 推移律、条件II 正反応、条件III 推移律、条件IV 推移律、条件V 推移律


p.182

数学は、「テクノロジーとしての便宜性」のゆえ、人間が用いる言語の中でとりわけ特別の地位を築いていると考えられます。しかし、このことは有意義なことである一方、悲劇の源でもあるのです。
この便宜性は、「科学性」と「普遍性」から来ると考えられます。第一に、数学は「科学を記述する言語」であるという特性を持っています。そのために、科学的なテクノロジーに利用されるわけです。そして第二に、数学はどんな言語よりも、国境や歴史や文化を超えて人々に理解されやすい、そういう普遍性を備えています。だからこそ、人類全体の文化水準を支えるテクノロジーの進歩に大きく貢献するのだと考えられるでしょう。この2つの性質をひとまとめにして、「客観性」と呼ぶことも可能です。これが、数学が言語として特別である点なのです。