福田和也『昭和天皇 第一部 日露戦争と乃木希典の死』

昭和天皇〈第1部〉日露戦争と乃木希典の死

昭和天皇〈第1部〉日露戦争と乃木希典の死


昭和って時代は、明治時代に活躍した人の子どもだったり甥っ子だったり、っていう明治維新から繋がってんだなあ、という感覚が色濃い時代だね…。昭和天皇に倫理を教えていた杉浦重剛、日本外交の無力に驚いて朝日新聞を退社し政治家に転進した中野正剛らのことは、すごいなあ、と思うわ。僕らのちょっと前の世代はすげーな。それから、ヴェルサイユ会議で惨めな状態を噛みしめた分て外交官たちとして名前が挙がるのも、重光葵有田八郎、堀内謙介、斉藤博、栗山茂、澤田廉三そして吉田茂。明治と昭和が繋がってることを感じさせられるよ。
昭和天皇、ものすごく興味が湧いてきた(遅い…)

p.166-167「
「私は御進講の度毎に、倫理は理屈ではなく、実行でありますと、常々申し上げて居るのです。後日に至り殿下が、若し杉浦は自分でも、大事に際して、成程実行して居るわいと、思召されたならば、私の御進講が十分に意義を有するのであります。之に反して、杉浦は喋舌つても、矢張り実行はできなかつたと、思召されることがあれば、千万言の御進講が何の意味もなくなるのである」(『杉浦重剛座談録』)

p.239「
中野正剛は、辛亥革命を取材した衝撃から朝日新聞を退社し、『東方時論』の経営者となり、みずから講和会議取材にやってきたのだが、あまりにも洗練されてしまった日本外交の無力におどろいて、政治家への転進を決意した。

p.241
ヴェルサイユ会議にて:

日本全権団は、五大国の一員としてパリに来たけれども、本当にその一角に入れてもらえるのか不安に思っていた。アメリカ、フランス、イギリスの三国が会議を行なうと、やはり三国ですべてを決めるのではないか、と疑心暗鬼になり、常に五大国で会議をしてくれと運動した。ところが、いざ仲間入りすると、語るべき意見がなかった。講話の重要事項である、バルカン半島の扱いやオスマン・トルコの分割といったことには、一切、発言らしい発言をすることができなかった。そのため、「サイレント・パートナー」という渾名を頂戴する羽目になってしまったのである。
この惨めさをしっかり噛みしめたのが、若手外交官たちであった。重光葵有田八郎、堀内謙介、斉藤博、栗山茂、澤田廉三そして吉田茂といった、昭和を担う外交官たちが、この屈辱から立ち上がったのである。