司馬遼太郎『街道をゆく (23) 南蛮のみち2』
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1988/11
- メディア: 文庫
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「南蛮のみち1」に続いて読了。バスク地方から離れて、いよいよポルトガルへ。ポルトガルが大航海時代からどう変わったか、同じく大航海時代に世界中に覇権を唱えたスペインとどう違うのか、みたいな部分が書かれています。
貧しかったポルトガルに過ぎたものとしてリスボン港を持っていた国は、大航海時代に乗り出します。コーエイのゲーム「大航海時代」ではリスボンを拠点にプレイしていましたが、街も大きかったものな〜、とどこまでもゲーム原点な話で申し訳ない…。とにかく、早くポルトガル行きたくなってきた。テンション、上がってきた!
以下、メモ。
p.192-193「
「スペインの子はどうですか」
「はずかしがりませんよ」
石美さんは、よほどそのことについて考えた経験があるらしく、大声でいった。かれには個人体験がある。お子さんのことである。スペイン女性を母とするふたりのお子さんを日本につれて帰ったところ、
「こちらがこまるほど、はずかしがらないんですよ」
ということだった。その理由など見当もつかないが、あてずっぽうにいえば、自分の文化を他の世界に押しつけてきた国にはそういう感覚がないか、すくないのではあるまいか。文化を押しつけてきたという点では、スペインほど世界に冠たる歴史をもっている国はあるまい。
ポルトガルも植民帝国だったが、広大すぎる植民地を維持するには本国の人口がすくなすぎたために、居丈高な態度ではやってゆけず、スペインとはずいぶんちがった姿勢をとりつづけたという事情があった。もっとも、ポルトガルのこどもがはずかしがるかどうかは、行ってみないとわからない。
ただ、ポルトガルの大人たちには好もしい含羞がある、ということは、日本でしばしばきいた。
」
p.237「まことに、大航海は、当時のポルトガル国を、食える国にした。
それまでは、貧しかった。
国土が小さいわりには人口が多く(13世紀で約200万)、食料の自給がつねに困難で、なにかしなければ食ってゆけないという焦燥が、ポルトガル人一般にあった。
もっとも、スペインにくらべてやや有利だったのは、8世紀からイベリア半島を支配していたイスラム勢力を、13世紀には追っぱらっていたことである(スペインは15世紀末までかかった)。このことで、キリスト教による統一国家がうまれ、国民の士気もあがっていた。
いまひとつ、この小国に過ぎたものは、リスボン港であった。リスボンはイスラム勢力の末期にすでに国際的な貿易港になっており、14世紀末には外国の商館もでき、海商、航海者たちが多く住んでいた。このことは、大航海以前にこの港に、海についての実務の集積があったということになる。
」
p.279「
歌(メモ:コインブラ大学の学生歌)に青春の哀傷があり、さらには前途に対するはちきれるような高揚がある。コインブラ大学では、日本の旧制高校と同様、弊衣を着るのが伝統で、黒マントも、すりきれたものを先輩からゆずりうけるのがふつうだという。
」
p.315-316「
エンリケ航海王子関係の原資料がほとんどが消滅しているために、サグレス岬に設けられた世界最初の航海学校というのも、じつは伝説にすぎない、という説があるのだが、おそらく論者はこのサグレス岬にきてここに立ったことがないのではないか。
ここでは陸でありながら、甲板の上にいるように潮を知ることができる。目の前の海には、沿岸に沿ってゆるやかに流れる沿岸流がうごき、沖にはべつの潮流が流れている。さらに、ここにあっては風に活力がある。生きもののようにたえず変化しており、そのつど、風をどう使えばいいかを、帆を張ることなく体でさとることができる。ここには水もない。水ははるかに運んできて、節水して使わねばならない。そばに、練習用の船を繋船しておく入江もある。この突角(ポンテ)は、自然地理的でなく、どこを見てもかつての人の営みがこびりついている。ここに航海学校がじつは無かったなどというのは、机上のさかしらのようにおもえてくるのである。
」