宮台真司『日本の難点』

日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)


ものすごくおもしろかった。刺激的でした。
社会の包摂性がだんだん失われてきていて、社会とか共同体が薄っぺらくなってきている、と。で、経済がうまくいっていればいいけど、経済がまわらなくなると、衝撃は個人を直撃する、という話。国が旗を振る公教育政策などで、まだできることはたくさんあるのではないかな、と感じます。
それと、社会学者としての宮台真司だけでなく、強烈に「父」としての宮台真司を感じるなぁ、というのが印象。お嬢さんがいらっしゃるそうで、いろいろと考えるのだそうな。で、教育についてでおもしろい、と感じたのは、「感染」を引き起こすようなすごいやつに出会わなきゃだめだ、というところ。

心底スゴイと思える人に出会い、思わず「この人のようになりたい」と感じる「感染」によって、初めて理屈ではなく気持ちが動くのです。「いじめたらいじめられる」なんていう理屈で説得できると思うのはバカげています。世の中、弱い者いじめだらけだし、それで得をしている大人がたくさんいるのですから。
そうじゃない。「いじめはしちゃいけないに決まってるだろ」と言う人がどれだけ「感染」を引き起こせるかです。スゴイ奴に接触し、「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」できるような機会を、どれだけ体験できるか。それだけが本質で、理屈は全て後からついてくるものです。(p.50-52)

これも本当にその通り。高校や大学で、いろんな友達に出会ったけど、「すげーな、こいつ」と思う人に出会って、「ああ、もっと考えなきゃ」とか「この人みたいになりたいな」という感染を受けたのは一度や二度ではない。こういうのが教育の最も大切な部分だな、と。
宮台真司中高一貫校に入れるためにがりがり勉強させることなんてない、とも言っています。がりがり勉強してる子が、飄々と遊びも勉強もしている奴に飛び越されちゃう様子を自分が見てきたからだって(笑)なるほど、それは自分の高校時代の友達を見ていた実感としてすごくわかる(笑)
こういうの考えると、「感染」したくなっちゃうような大人に会える場所に連れて行ったり、「感染」しちゃうような友人に出会える場所を見つけたり、が親の仕事だな、と思うのです。
以下、もろもろメモ。

p.23-24

ケータイ小説は、キャラ以前的な(作品を全く横断しない)記号とプロットの組み合わせです。では、データベース的消費ないしキャラ消費と、ケータイ小説的消費とに共通したコンテンツ消費のあり方は何なのか。


これらに共通した新しいステージ:
「人間関係のフラット化」に密接に結びついた「関係性の否定」
=関係の履歴がかたちづくる入れ替え不能性が、否定されている

『恋空』は典型的だ
・「関係の履歴」ではなく「事件の羅列」がある(輪姦され、セックスして妊娠して、嫉妬した女に突き飛ばされて流産して、新しい男が現れてくっついて、別れたカレシが癌だとわかって元のさやにおさまって、最後は家族のもとに帰る・・・)
・そこにあるのは「事件の羅列」だけ。「関係の履歴」はない。


読者は濃密な人間関係を経験したことがないので、濃密な人間関係を描く小説や漫画や映画に触れると「自分がはじかれてる」「自分が関われないものが描かれている」と感じるのだと思います。そんな読者が望むのは、「ディープな関係の履歴」ではなく、「ディープな事件の羅列」なのでしょう。


p.34-35

物理的空間に拘束された人間関係は意味をなくし、多様に開かれた情報空間を代わりに頼りにするようになります。それまでの家族や地域や職場の関係から何かを調達するよりも、インターネットと宅配サービスで何もかも調達するようになります。その結果、何が起こるのでしょうか。
答えは簡単。社会が包摂性を失うのです。経済が回るときには社会も回るように見えますが、経済が回らなくなると個人が直撃されるようになります。なぜなら、経済的につまずいても家族や地域の自立的な(=行政を頼らない)相互扶助が個人を支援してくれる社会が、薄っぺらくなるからです。
秋葉原連続殺傷事件が起こったとき、若手論壇人らが「個人を直撃するグローバル化や格差社会がいけない」という論陣を張りました。これは間違いです。グローバル化も、それに伴う経済格差化も不可避です。むしろ、それらによって個人が直撃されないような社会の包摂性が必要なのです。
別の言い方をすれば、国家(行政)は「個人の自立」を支援するのでなく、「社会の自立」を支援するべきなのです。言い換えると、国は、社会がそれなりに自立して回るように助ける役割に徹するべきです。社会学者のアンソニー・ギデンズはそれを「社会投資国家」と呼びますが、欧州の政策的な共通了解になっています。


p.50-52
「いじめ」=人の「自由」な日常的活動のベースになっている「尊厳」を、回復不能なまでに傷つけることで、以前と同じ生活を送れないようにしてしまうこと。
→完全になくすことはできない、ただ、ほとんどなくすことができる、ということは可能。

重松清『青い鳥』について

先生の本気が、生徒たちに「感染」していきます。人の「尊厳」を傷つけ、そのことで「自由」を奪ってしまうのが、なぜいけないことなのか。それは「理屈」ではありません。「社会の中で人が生きる」ということを支える前提です。なぜそんな前提があるのか、誰にも分かりません。
だから「ダメなものはダメ」なのです。「みんなが言うからダメ」とか「誰かをいじめれば君もいずれはいじめられる」などと説教するのはクダラナイ。「ダメなものはダメ」を伝えられるのは「感染」だけです。「感染」を引き起こせるのは何であるのかを、『青い鳥』はよく描いています。
心底スゴイと思える人に出会い、思わず「この人のようになりたい」と感じる「感染」によって、初めて理屈ではなく気持ちが動くのです。「いじめたらいじめられる」なんていう理屈で説得できると思うのはバカげています。世の中、弱い者いじめだらけだし、それで得をしている大人がたくさんいるのですから。
そうじゃない。「いじめはしちゃいけないに決まってるだろ」と言う人がどれだけ「感染」を引き起こせるかです。スゴイ奴に接触し、「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」できるような機会を、どれだけ体験できるか。それだけが本質で、理屈は全て後からついてくるものです。


p.61

社会学者のニクラス・ルーマンは「おかしなことは何も起こりません」という期待を「慣れ親しみ(安心)」と呼び、「いろいろあっても大丈夫です」という期待を「信頼」と呼びます。「安心」は脆弱ですが「信頼」は強靭です。対面コミュニケーションを「信頼」ベースにするべきです。


p.79-80
自殺のロールプレイ(中学生2人1組、1人が自殺寸前、もう1人が自殺をやめさせる役)

唯一、本当に唯一効き目のある物言いは、「お前が死んだら自分は悲しい」「お前が死んだらつらくて生きていけない」といったものです。子どもたちはすぐにそれを察します。同時に、こうした言葉は、それを支える関係性の履歴がなければ、空念仏に等しくなるということも、理解します。
関係性の履歴がなければ、「お前が死んだら悲しい」「嘘つけ!」で終了。実は日本の自殺率が先進国最悪で、イギリスの倍に及ぶ理由も、ここから理解できます。「お前が死んだら悲しい」「嘘つけ!」で終了するような関係性が蔓延しているのです。これが「社会的包摂の空洞化」なのです。
その意味で、「人の死」を教えることに社会的意義があるとすれば、「お前が死んだら悲しい」「嘘つけ!」で終了してしまう人生や社会の薄っぺらさを、克服する方向に生を組織することに役立つということです。


p.99

他人を幸せにするということは、経済的な機会や政治的な機会をもたらすことに還元できない何事かです。たとえば、ミメーシス(感染的模倣)の機会がそうです。豊かになるとか集団を操縦するとかとは別に、「スゴイ奴」に感染する喜びは、感情や感覚の幅を不可欠とし、またそれらの幅を拡げます。
プラグマティストであるジョン・デューイの正統な後継者を自称するリチャード・ローティが「感情教育」と呼ぶものも、これです。「感情教育」なくして民主政治が良い社会を作ることはできません。


p.235

学生たちの就職活動が「自分探し」に傾斜していて、肝心の「社会探し」(社会の探求)が疎かになっている。これは日本的勘違いです。