稲垣佳世子・波多野誼余夫『人はいかに学ぶか 日常的認知の世界』

人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書)

人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書)


ひさしぶりに引っ張り出して読んでみた、大学時代の講義の教科書。たしか講義名は「認知学習論」だったような。こんなに長くつきあう学問になるとは当時は思っていなかったっけなぁ。メモをしてはみたけれど、だいぶ他の本で読んだ内容とかにもかぶっていたので、少なめ。

もともと日本では、小中学校の教師は、社会的に尊敬されていたせいもあり、彼等がその創造力を十分に発揮することが比較的容易であったと考えられる。これは大部分の教授プログラムが大学の研究者によってつくられ、教師は、いわばそうしたプログラムの実行者に過ぎなかったアメリカの場合とは、大きく異なっている。

という部分、プログラムを日本の学校に売っている立場としては同感。アメリカとはそもそも違う、ということか。そうするとアメリカ生まれのカリキュラムとかプログラムを持ってくるのって、やっぱり大変だよなー。書店とかと一緒にやるか、何かイベントとして企業と一緒に動くか。そういうこともできそうかな、とこの本の本筋である、「新しい学習観」とは全然関係ないところで思ったり。

p.176

もし理想的な教育の場というものを考えるなら、次の二つの要件をともにみたすことが期待されよう。ひとつは、そこでは学習者が、日常生活におけるように能動的でかつ有能な学び手であること、もうひとつは、日常的認知の限界を超えて理解を深める機会となること、である。


p.182
糸井秀夫・西尾恒敬『はみだしっ子が笑った』(あゆみ出版, 1977)の報告例
1年生の学級で引き算の指導をしていたときの問題:
・「男の子が12人います。女の子が8人います。どちらが何人多いでしょう」
 →比較問題よりかなり難しいもの
・大部分の子どもはこれを正しく引き算ととらえた
・しかし、5人の子どもが足し算ととらえた。
 →理由として「男の子12人から女の子8人をとることができないから」
・この主張に対し、引き算組は答えに困り、実際にやってみることにした→結果、納得。


教師から、その日の勉強で一番みんなの役に立ったのは誰かと問われたとき、子どもたちは一斉に、「男の子から女の子はとれない」という「まちがった」理由を出した子どもの名前をあげたのだ。
まちがった意見に出会い、それへの反論を考えることによって、引き算の「比較問題」の意味や、それと「分離問題」との関連をより深く理解できたことに子どもたちは気づいたのである。


p.194

もともと日本では、小中学校の教師は、社会的に尊敬されていたせいもあり、彼等がその創造力を十分に発揮することが比較的容易であったと考えられる。これは大部分の教授プログラムが大学の研究者によってつくられ、教師は、いわばそうしたプログラムの実行者に過ぎなかったアメリカの場合とは、大きく異なっている。
日本の教育のすぐれた伝統のひとつは、教育に関する知識が、研究者によってのみ生産されるのでなく、子どもと直接かかわる教師によっても見出されるのだ、と関係者が信じていることであろう。このことが今日の受験体制や、あるいは管理下の進行にもかかわらず、なおかつ日本の教育の長所として残っている、と思われる。