森口朗『授業の復権』

授業の復権 (新潮新書)

授業の復権 (新潮新書)


達人たちの授業を集めて紹介している新書。こういうの、お手軽ですごいいいんじゃない?(いい意味で)
特に興味があったのは、仮説実験授業。

p.22

科学とは仮説と検証の繰り返しである。ところが、子ども達には通常「仮説を立てる自由」が許されていない。学校は科学をするところではなく教育を行うところだからだ。教科書に載っている「正しい知識」「正しい解き方」を暗記し再現することが、学校教育の中心になっている。

あらためて言われると、そうだなあと思うものです。この中で、北海道の面積を使って計算結果を実証するくだりがあるのですが、こないだ三田紀房ドラゴン桜』でも紹介されていました。なるほどー、と思ったら出所はここか…。知識がカチリとつながった感じで気持ちいい。

いろいろな授業、研究していかなきゃな…と思いました。まずは仮説実験授業からあたってみることにします。ディベートとの違い、とかもとても面白いと思った。

以下、メモ。

p.19
仮説実験授業(板倉聖宣
「仮説、推理、検証」で学ぶ科学の心


p.22

科学とは仮説と検証の繰り返しである。ところが、子ども達には通常「仮説を立てる自由」が許されていない。学校は科学をするところではなく教育を行うところだからだ。教科書に載っている「正しい知識」「正しい解き方」を暗記し再現することが、学校教育の中心になっている。

p.23

少なくとも私には、授業中に面白く実験を行った記憶がまったくない。その理由は「仮説を立てる自由」が無かったからだ。
正しい答えは教科書に載っている。それゆえ学校で行う実験は、実験器具の使い方を覚えたり、教科書の正しさを確認したりするためのものになりがちだ。子どもにとってこれほどつまらないことはない。


p.32

近年では「ディベイト」っぽいだけの授業もおおはやりだ。子どもは自説を言いっぱなし、教師は聞きっぱなし。なのに、子どもは意見を言った事実、教師は子どもの意見を聞いた事実だけで満足している。私は、こういう授業を「2ちゃんねる授業」「しゃべり場授業」と命名している。
この2つに参加している若者たちに共通するのは、自分の論理は一貫しているが、自他の論理の違いを冷静に比較検討する姿勢が育っていない点である。そして、ヒステリックな批判か、「いいんじゃない、人それぞれなんだから」といった突き放した上での受入れのいずれかの態度しかとれない。


p.49

一般に算数・数学は数量を扱う分野(代数)と図形を扱う分野(幾何)に分類される。これに対し、原数学は「未測量」「分析・総合の思考」「位置の表象」の三分野に分けられる。そして「未測量」が発展して「代数」となり、「位置の表象」が発展して「幾何」となる。「分析・総合の思考」は双方に必要な思考という位置づけだ。


遠山啓『歩きはじめの算数』

この本でとりあげられている内容は、未測量にせよ、分析・総合にせよ、位置の表象にせよ、すべて従来の学校でやっていなかったものばかりである。しかし、私たちは、このようなものこそ小学校の算数教育の始まる前に十分身につけておいてほしいものだ、と考えている。


p.71
国語教育について

作文を書いた記憶はあるが、「その文章でお前の思いは伝わるのか」と詰問された経験はない。難解な文章を読んだ記憶はある。しかし、一流の文章を必死になって暗誦した思い出は少ない。
我々は、受験国語に慣らされ母国語を鍛える機会を持てなかった。その不幸を無意識に自覚し、自分自身で日本語力を鍛えなおそうとしている。


p.98

「教科書を教科書通り教える」といっても決してそれを生のまま与えるのではなく、場合によってはかみ砕いて与えるのが「向山式算数」である。氏はそれを「変化のある繰り返し」と呼んでいる。
始めはすごく易しい問い、次にわずかに変化させた問い、三番目はちょっと飛躍させた問い、四番目は教科書と似た問い、そして教科書に戻る。
つまり助走となる問題を、くどくど説明しないでテンポよく与える。そうすることで多くの子どもが授業についてこられるし、結果的に理解できる子も増えるのだ。


p.112

百ます計算は誰でも出題できる。そして手作りである。学校現場において、この「手作り」というのは意外に重要なことだ。
第二章で紹介した「水道方式」が残した影響の一つだと思うが、市販のプリントを授業で使う先生は熱心ではないという「プリント神話」が教育界には存在する。