増田ユリヤ『教育立国フィンランド流 教師の育て方』

教育立国フィンランド流教師の育て方

教育立国フィンランド流教師の育て方


教育業界では大モテなフィンランドフィンランドでどんなふうに教師が育てられているか、っていうレポートです。

教師に必要なのは、創造力と指導力です。指導力といっても、一方的なものではなく、常に子どもの支援者であること。支援者であるということは、単に教え込むよりももっと教師の力量が必要です。どんなときにも子どもたちの状況に応じて柔軟に対応できる実力といったらいいのかな。(p.173)

ああ、そうだそうだ、本当だ。この支援者である力って、教職を取ろうと思っている人は大学とかで学ぶのかなあ。これを持とうと思ったら、コミュニケーションとか心理学とか、ツッコミ力とか、なんかそういういろいろを統合的に学ばなきゃダメじゃんね。
あとは、フィンランドの人の素朴な疑問が書かれています。

フィンランドの人たちは「テストの点数のどこが信用できるのか。その人がそれまで積み上げてきた過程が大事だ」と言い切り、「身につけている知識の分量では、日本人の方が優れている」ともいう。
そんな彼らの疑問は、「どうして日本の教育は変わらないのか。フィンランドの何を見にきているのか」ということだフィンランドのを訪問する教育関係者たちが、熱心にノートをとり現場の写真撮影をする一方で「フィンランドは素晴らしい。でも日本で同じことをやろうとしても無理」とだけ言い残して帰っていく姿を見るたびに、そう思うという。わざわざ渡航費をかけて、親でもある教師が自分の子どもに留守番までさせてきているのに、無理だと一言で片づけられるのは「日本人の余裕」とも見てとれるらしい。(p.198)

耳が痛ぇ…(苦笑)がんばろう、僕ら!

p.151-152
フィンランドのある学校で使われている、教員実習指導評価表のチェックポイント:
1.単元内容の教授法
2.コミュニケーション
3.個々の生徒の状況に応じた対応
4.社会性に準じた秩序ある管理
5.モチベーション
6.教授方法のコントロールと状況に応じた応用
7.授業計画
8.教師という仕事への向かい方

これらをトータルした「教授技術とテクニック」

p.173
「教師に必要なのは、創造力と指導力です。指導力といっても、一方的なものではなく、常に子どもの支援者であること。支援者であるということは、単に教え込むよりももっと教師の力量が必要です。どんなときにも子どもたちの状況に応じて柔軟に対応できる実力といったらいいのかな。」

p.191
読んでおきたい本:
フィンランド・メソッド入門』
フィンランド国語教科書 小学四年生』

日本人が苦手とする
1.発想力
2.論理力
3.表現力
4.批判的思考力
5.コミュニケーション力    がつくノウハウが凝縮されている

p.198「
フィンランドの人たちは「テストの点数のどこが信用できるのか。その人がそれまで積み上げてきた過程が大事だ」と言い切り、「身につけている知識の分量では、日本人の方が優れている」ともいう。
そんな彼らの疑問は、「どうして日本の教育は変わらないのか。フィンランドの何を見にきているのか」ということだフィンランドのを訪問する教育関係者たちが、熱心にノートをとり現場の写真撮影をする一方で「フィンランドは素晴らしい。でも日本で同じことをやろうとしても無理」とだけ言い残して帰っていく姿を見るたびに、そう思うという。わざわざ渡航費をかけて、親でもある教師が自分の子どもに留守番までさせてきているのに、無理だと一言で片づけられるのは「日本人の余裕」とも見てとれるらしい。」

東浩紀編『別冊思想地図beta メディアを語る』

メディアを語る (別冊思想地図β ニコ生対談本シリーズ#2)

メディアを語る (別冊思想地図β ニコ生対談本シリーズ#2)


おもしろかった!川上量生さん、宇川直宏さん、濱野智史さんと、ネットに対してそれぞれの関わり方をしている3人と、東浩紀さんとの対話。特におもしろかったのは、ネット上での人の意見ってものがどう政治に生きるのかとか。興味深かったなあ。

東 蓮舫さんに罵倒中傷のリプライを投げている人たちは、1回投稿するごとにネット民主主義が確実に遠のいていると思わなければならない。ツイートは実は多くの人から見られている。ああいう無意味な中傷は、ネット民主主義を実現したくない人たちからは格好の口実になる。しかも、どうせその主張は肝心の蓮舫さんに届いていないわけです。つまり、ああいった行為はネット民主主義を遠のかせる効果しかない。しかし日本のネットユーザーの一定数は、多くの政治家に向けてそういうことをやってしまっている。そんな状況で「いますぐネット民主主義が実現しなくてはならない」と言っても、それは無理だろうと思います。(p.171)

まったくだよね。で、結果的に言えるのは、

濱野 東さんは先日ツイートで、結局のところ日本には、匿名的なツールをうまく使いこなすだけの民度がない、と表現されましたよね。そのあたりは僕も意見が一緒で、アメリカで匿名サイトが出ていたとき、僕はやはりアメリカはインドが高いなあ、と思ってしまいました。AnonymousにしてもWikiLeaksにしても、たいへんすばらしい理念に貫かれている。(略)もちろんある意味では非常に暴力的なことをやっているので、そういう観点ではよろしくないと言えるのかもしれません。でも、理念として、目的としては立派なわけです。そういうものに匿名性を使うという意味では、至極まっとうです。(p.158)

とか、

東 日本のネットはツッコミメディアから卒業しなければならない。ツッコミメディアとしてしか機能しないのでは、最後の最後に逆転できない。ツッコミだけが暴走する。さっきも言いましたが、いまの日本でネット献金やネット選挙を全面的に解禁したら、政治家はまとめサイトの顔色を見て政策を決めることになってしまう。(p.181-182)

とか、その通りだよね。これは「ネガ出し」をやめて「ポジ出し」をしよう、というのにも近いかな。社会にコミットしていく人が、もっともっとネットを使っていくようになる、というふうになっていけばいいな、と思います。いやー、興奮しすぎてドキドキしてきた。
以下、メモ。

p.21-22「
川上 ゲームの世界でも、実は現在のソーシャルゲーム業界はきわめて対照的なんです。ソーシャルゲームの世界には、「怪盗ロワイヤル型」とか「牧場型」みたいなすでに固まったいくつかの類型があるんですよ。「このタイプのキャラを使うんだったらこの型のゲームを作りましょう、すると売り上げはこのくらいで人気の持続はこれくらいです」みたいにあらかじめ全部計算したうえで、ソーシャルゲームのマーケティングはなされています」

p.27-28「
川上 ニコニコミュージカルではちょうどいま、角川歴彦会長が『源氏物語 千年の謎』という映画を製作するのにあわせて、プロモーションも兼ねて源氏物語のミュージカルを作っています。この前シナリオができたので発表会に参加したら、「源氏物語平安時代非モテ女子が書いたライトノベルだった」という物語の設定を知らされてそのときはたいへん衝撃を受けたんですが(笑)、どうもあながち嘘でもないみたいじゃないですか。実際に源氏物語は、漢文が主流だった時代に仮名で書かれた物語で、女子どもばかりが読む文化だった。さらに当時の流通方法といえば写本で、書き写すときにいろいろな人が勝手に物語を書き加えていったらしい。宇治十帖なんかは紫式部以外の人間が書いたという説もありますよね。とすれば、源氏物語は当時ほとんど同人誌のように人びとのあいだを流通し消費されていたことになるわけで、それでもいままで残って高尚な文学作品として学校で習うじゃないですか。だから、人びとが消費している文化はどの時代もほとんど似たようなもので、後世に残るか残らないかはほとんど偶然によっているということになりませんか?」

p.34
東が興味深いと紹介している本

村上泰亮公文俊平佐藤誠三郎『文明としてのイエ社会』

  • 東日本対西日本という対立が、西欧対東欧の対立に重なっている
  • 西日本と東欧では土地保有の形態が似ていて、そのときにさらなる辺境として存在している西欧=東日本は資本主義に対して最も適合性が高い

p.53「
川上 「文系」と「理系」とはあまり有益な分類ではないと思うが、現実問題として日本では両者の世界の断絶は根深いものがある。
今後、ITとネットが世界と人間をどう変えていくかを論じるとき、両者の意見交換なんて生ぬるいものではなく、お互いの領域に踏み込みあえる、融合した教養をもつ人間を育成していかないと、本質的な議論はもはやできない時代になりつつあるのではないか今回の対談を通じてあらためて思った。」

p.158「
濱野 東さんは先日ツイートで、結局のところ日本には、匿名的なツールをうまく使いこなすだけの民度がない、と表現されましたよね。そのあたりは僕も意見が一緒で、アメリカで匿名サイトが出ていたとき、僕はやはりアメリカはインドが高いなあ、と思ってしまいました。AnonymousにしてもWikiLeaksにしても、たいへんすばらしい理念に貫かれている。(略)もちろんある意味では非常に暴力的なことをやっているので、そういう観点ではよろしくないと言えるのかもしれません。でも、理念として、目的としては立派なわけです。そういうものに匿名性を使うという意味では、至極まっとうです。」

p.160「
濱野 うまく敵を見つけようと言っても、結局それはレッテル貼りにしかならない。「民主党の政治家が悪いんだよ!」と言っても、それこそ2ちゃんねらーそのものになってしまう。それも違うなあ、という感じもします。そういう状況のそのもののほうが問題なのではないかと。変な話、メディアリテラシーだけは異様に高くなってしまっている。これをリテラシーと称するのも変かもしれませんが、あら探しの能力ばかりが高くなっている。その矛先がうまく見つかっていないというか、マッチングがうまくいっていないという印象です。」

p.171「
東 蓮舫さんに罵倒中傷のリプライを投げている人たちは、1回投稿するごとにネット民主主義が確実に遠のいていると思わなければならない。ツイートは実は多くの人から見られている。ああいう無意味な中傷は、ネット民主主義を実現したくない人たちからは格好の口実になる。しかも、どうせその主張は肝心の蓮舫さんに届いていないわけです。つまり、ああいった行為はネット民主主義を遠のかせる効果しかない。しかし日本のネットユーザーの一定数は、多くの政治家に向けてそういうことをやってしまっている。そんな状況で「いますぐネット民主主義が実現しなくてはならない」と言っても、それは無理だろうと思います。」

p.178「
濱野 いま日本の若い人で、シニカルな目線を持っている人であれば、もうだいたい2ちゃんねらーになってしまう。うまいことなにか理念をつけてあげないとシニカルな物の見かただけが、ひたすら暴走し続ける。」

p.181-182「
東 日本のネットはツッコミメディアから卒業しなければならない。ツッコミメディアとしてしか機能しないのでは、最後の最後に逆転できない。ツッコミだけが暴走する。さっきも言いましたが、いまの日本でネット献金やネット選挙を全面的に解禁したら、政治家はまとめサイトの顔色を見て政策を決めることになってしまう。」

佐伯啓思『反・幸福論』

反・幸福論 (新潮新書)

反・幸福論 (新潮新書)


佐伯啓思さん、何か悟っちゃったかな?と読み始めて前半は思ったのですが、後半はなかなか真摯だな、と思いました。脱原発をするかどうか、ということについて「これはテクニカルな政策的課題ではない」と言い、これは「価値の問題」と伝える。

脱原発は、原発はもうこりごりだ、というただの街角のつぶやきではなく、脱成長路線へと価値転換をはかる、という覚悟の問題です。(p.201-202)

国民のほとんどが、「敗戦後体制」(=「平和憲法」「アメリカニズム」*1「経済成長」)に満足していて、そこに問題があると思っていないので、これをいじるとなると、大衆の支持を失うことは間違いない。しかし、この3点セットがもはや機能不全に陥っているのが問題である、と言う。ここを認めていって、経済成長を手放して、不便な生活を我慢できるのか。それによって経済は悪くなるだろうし、社会も不安定になるかもしれない、っていう「暗澹たる未来図」を描けるのか、ってことですよね…。僕個人としては、「そんなきちんと扱えない技術=原発」はリスキー過ぎて、そのために多少生活がマイナスになってもいいな。廃炉のための技術を日本らしく培っていってほしいと思うよ。日本人は、きっと脱原発後の不便さにもびっくりするほど適応できるんじゃないかと思う。そこに期待したいな、と思うけどなあ。

なぜなら本当の問題は、自民か民主か、あるいは政治主導か官僚主導か、という点にあるのではなうわれわれ自身の内部にあるからです。われわれの内なる「ひねくれた権力欲」にあるからです。
にもかかわらず我が身に振りかかる不利益や不満を、どうもわれわれはあまりに性急に政治のせいにしてしまう。(p.237)

自分たちでしっかり考えて、決める、っていうことが大事。当たり前のことを、しっかり書くのが「保守」*2かなあ、と佐伯啓思さんを、「やっぱすげー!」と思った本でした。
以下、メモ。

はじめに「
日本の伝統的精神のなかには、人の幸福などはかないものだ、という考えがありました。(略)現世的で世俗的で利己的な幸福を捨てるところに真の幸せがある、というような思考がありました。それがすべていいとは思いませんが、かつての日本人がどうしてそのように考えたのか、そのことも思いだしてみたいのです。」

p.34-35「
「幸福」ということでいえば、「善きもの」とは何かと自らに問い、そのための「徳」を積むことこそが「幸福」だということです。果てしなく「自由」を求め、「利益」や「権利」を求めることではありません。「自由」「利益」「権利」の先に「幸福」があるのではありません。「自分のやりたいことを自由にやる」ことが幸福なわけでは決してないのです。
私はおおよそこのサンデルの「アリストテレス主義」には賛同できます。しかしまた、われわれ日本人にとって、アリストテレス主義とはあまりに遠い存在である、という気もします。本当のことをいって、アリストテレスがどんな顔つきで、どんな調子で「徳」や「善」といったのか、容易には想像がつかないのです。それがわからなければ、どうも彼のいう「徳」や「善」も本当にはわかりません。」

「それにしても、興味深いのはサンデルの正義論がどうしてこの日本でかくもベストセラーになっているのかでしょう。そもそもアリストテレス的伝統などというものに、それほど多くの日本人が関心を持つものなのでしょうか。
少し悪意を持ってみれば、誰もサンデルの述べているメッセージなどにはさしたる関心もなく、ハーバードの大教室で満員の学生を釘づけにして次々と議論を繰り出すサンデル先生のカッコよさに拍手しているだけかもしれません。たぶんそうでしょう。」

p.49-55
日本の「ふるさと」という意識:
霊力を背景にして、村々には神社があり神社を中心にして共同体があった。神社にはご神木やお稲荷さんがあり、この霊力が共同体を守っていると考えられていた。

神という超越的な力への畏怖によって共同体の秩序が維持されなければならなかった。

「神が敗れた」ということは、山里から神々もいなくなった、ということ。折口が述べたような、伊勢神宮出雲大社に祭られた『古事記』の神々だけではなく、村々にいた土着の名もない神々の敗北でもある。端的にいえば、「ふるさと」の敗北であり「都会」の勝利だった。自然のうちに宿る神々によって守られてきた村々の敗北であり、都会の合理主義、近代主義の勝利だった。

こうして、戦後の日本人は、村を棄て、共同体を打ち壊し、田舎から都会へと民族移動を開始した=近代化、都市化

神々の敗北は、われわれから畏れを知る心をなくしてゆき、人は自由と利益と利便を求めてもっぱら経済へと関心を移していった。
=田舎も「経済的な利益」に巻き込まれていく。

p.88「
「家庭」にせよ「家族」にせよ、その実質は解体し、できるだけ名目的で形だけのものにし、別々の人格をもった個人の寄せ集めだということにしたのです。封建制度の象徴である「イエ」を解体するその刀で、勢いあまってというか、思慮足らずにというか、「家庭」や「家族」まで解体してしまった、ということです。」

p.94-95「
確かに家族生活をうまくやるのは大変に難しい。それは、社会にしては関係が近すぎるからにほかなりません。特に、父・母・子供(最近の言葉では、おとん、おかん、そしてボク)という戦後の核家族は関係が接近しすぎているために、他者性がわかりにくくなり、うまくやるのは大変に難しい。だからこそ、昔は、父や母や子供や祖父母などの関係に一定の枠をはめ、役割と距離によって関係が過度に接近することを防いでいたのです。それが「イエ」というものでした。だから、戦後の民主的家族になって、ある意味では昔よりかえって窮屈になってしまった。結果としてうまくいかない家族が続出するしかしその努力を最初から放棄して、家族を捨て広い社会へでればもっと自由で幸せになると思うのは大間違いなので、他者と親しく信頼を築くのはたいへんなことです。その努力の中から生活の知恵や処世も学ぶ。そのことをあらかじめ放棄して、放棄することによってより幸福な生活が待っているというのは虫が良すぎるわけです。」

p.137-138
福沢諭吉「人間蛆虫論」(『福翁百話』)
「だが、この世に生まれた以上は、蛆虫とはいえそれなりの覚悟が必要である。その覚悟とは何か。人生は戯れと知りながら、この一場の戯れを戯れとはしないでまじめに勤め、貧苦を去って富楽を求め、他人の邪魔をしないで自分の安楽を求め、50、70の寿命で満足し父母に仕え夫婦仲良く、子孫のことを考え、公益を考え、生涯ひとつの過失もないおうに心がけるのが蛆虫の本分である。いやこれは蛆虫のことではない。万物の霊としての人間だけが誇れるところである。ただ戯れと知りつつ戯れれば心は安く、極端に走ることはない。まわりの者がバカ騒ぎをしていてもひとりそれに混じることもないだろう。人間の安心法はおおよそこんなところにあるのだ。」(『福翁百話』(7)「人間の安心」)

p.199-202「
原発」をかりに現代の技術文明の象徴だとすれば、脱原発は、この技術文明そのものをどう考えるのか、もっといえば、技術文明に依存したわれわれの「幸福」をどう考えるのか、という問題へつながってくるからです。

脱原発は長期にわたって電力使用レベルを落とすことになり、電力料金の値上げを容認することになる。
・企業からすればコスト上昇によって国際競争力を失うということ、消費者にとっては制圧レベルを低下させることを意味する。

端的にいえば、グローバルな市場競争のさなかで経済成長を追求しようとすれば、できるだけ資源制約の少ない安定したエネルギー供給が不可欠だった。だから、世界中の国がリスクを承知で原発の方向を向いた。
その方向を、たいていの者は追認していた状態。日本のように製造業で国際競争をする国は、ともかく安くモノを作らなければどうにもならなかった。

「だから、少々乱暴にいえば、われわれはたいへんに深刻な二者択一に直面してしまったのです。ひとつは、原発建屋の爆発によってわれわれの豊かさもふっとばされたと割り切り、もはやこれまでのような豊かさの追求は断念する、という方向。
もうひとつは、あくまでグローバルな市場競争のさなかでこれまで以上の豊かさを追求するためにより安全な原発を開発するという方向。この二つです。
これはテクニカルな政策的課題ではない。価値の問題なのです。脱原発は、原発はもうこりごりだ、というただの街角のつぶやきではなく、脱成長路線へと価値転換をはかる、という覚悟の問題です。

p.203-205「
果たして、日本人にその覚悟があるのか。正直いって、今、われわれはまったく決断できなくなっているのではないでしょうか。
原発はいやだ、だけどこの生活レベルは失いたくない。原発は危険だがどうも脱原発までは…。どちらへもゆけず決定不能な状況のなかでたたずんでいるように見えます。」

リスボン大地震(1755年)
・キリスト教的な最善説を打ち砕いた。自然の圧倒的な力の前に恐怖し、その恐怖に打ち勝ち、自然の作用を解明し、法則を知ることで自然を支配するべく技術を使っていく、という近代的な世界観を作ってきた。

p.217-218「
ここに現代の「技術」の性格がある。それは、本来の「自然」が内蔵しているものの発現を手助けする「テクネー」ではなく、自然に対峙し、それを支配し、それに挑戦する。物理学が出てきたときに、それと結合した技術が「近代技術(テクノロジー)」という専門科学の一変種として、産業化を可能としたのです。
産業化によって、人は物的な富の蓄積を幸福だとみなし、技術によっていくらでも富を増進できるという技術信仰を生みだしました。これはまた、科学の専門主義への信仰とも軌を一にしているのです。ハイデガーは、今日(20世紀の中葉)、アメリカとソ連こそがその代表的な国で、このふたつの国は体制は違うけれど、本質は同じだと述べています。」

p.230-231「
民主党は「国民の意思」を政治に反映させる、といった。とすると「国民の意思」とは、「支配権力」への否定的で破壊的な意思だということになる。民主党を動かしたものは、この大きなしかし漠然とした「否」だったといってよいでしょう。
だがそうだとするとこれは深刻な問題です。われわれの政治の質が、根本的なところで「支配権力」を否定するという欲望によってしか動かない、ということだからです。
しかしただの「否」からは何も生まれて来ません。それは「支配権力」や「既得権益」や「守旧勢力」を批判はするでしょう。しかしその先に何も生み出しません。」

p.236-237
国民のほとんどは、「敗戦後体制」(=「平和憲法」「アメリカニズム」「経済成長」)に満足していて、そこに問題があると思っていない。

これをいじるとなると、大衆の支持を失うことは間違いない。しかし、この3点セットがもはや機能不全に陥っているのが問題

まずは、この暗澹たる未来図を思い描くしかない。

なぜなら本当の問題は、自民か民主か、あるいは政治主導か官僚主導か、という点にあるのではなうわれわれ自身の内部にあるからです。われわれの内なる「ひねくれた権力欲」にあるからです。
にもかかわらず我が身に振りかかる不利益や不満を、どうもわれわれはあまりに性急に政治のせいにしてしまう。

*1:学生時代は、佐伯啓思と言えば『アメリカニズムの終焉』だったなあ。

*2:ご本人はすでに「保守と革新」という対立軸自体が曖昧になっている、というスタンスみたいですけど。

市川伸一『学ぶ意欲とスキルを育てる いま求められる学力向上策』

学ぶ意欲とスキルを育てる―いま求められる学力向上策

学ぶ意欲とスキルを育てる―いま求められる学力向上策


学力を「学んだ力」と「学ぶ力」に分けているのはその通りだよなあ、わかりやすいよなあ、と思いながら読んだ。
それから、「何のために学ぶの?」っていうことへの答えとして、「なりたい自己」と「なれる自己」を広げるためと答えたい(p.40)っていうのは、いいなあと思うわ。「なれる自己」のためだけに毎日を過ごすのは違うと思うし、でも、「なりたい自己」だけのためにすべてをかける、というわけにはいかないこともあるじゃない?例えば、「おれ、バンドで食ってく」的な感じだとさ。おまえ…才能あんのかよ?みたいな話になるし。だから、「なりたい自己」と「なれる自己」の両方を広げてほしいよ、子どもには。

子どもがたまたま飛びついたものに、「ああ、それはいいからがんばりなさい」というだけだと、親にしろ、先生にしろ、それは無責任だと私は思います。子どもがサッカー選手になりたいと言ったとする。さほど運動能力も高くない子がテレビでサッカーを見て、「僕、サッカー選手になる!だから、別に数学はいらないよ」と。そこで、「じゃあ、その道でがんばりなさい」と言ってしまう親は無責任です。
「なりたい自己と、なれる自己を広げる」という言い方を私はしますが、いろいろな大人の姿を見ていないのに、たまたま、「あれがいいや」といって安易に飛びついてしまうということが子どもはあるわけです。ですが、もしもなれなかったときに、その子はどうなるのか。「タレントになる」と言い出したとしても、もっとさまざまな道もあるということを、子どもの頃にたくさん見てほしい。(p.196)

大賛成。
あと、総合学習でうまくいく学校の特徴として、先生方も楽しんでいる、というのを挙げています。ああ、そうだなあ、と思い当たることあり。

実際、総合学習でいうと、うまくいっているというところは、先生自身が感動して、その授業を楽しんでいる。社会科の授業でいろいろな人の生き方を子どもたちに見てもらうということで、一般社会人の人と子どもたちが交流するという実践を見たことがあるんですが、一番楽しんでいたのは先生です。
先生自身は、学校というところにずっと勤めていて他の社会を知る機会が少ない。授業で、エンジニアの人、農家の人、いろんな人を呼ぶと、そういう方々から先生も学ぶことができる。そして、そういう先生の姿を見ていると、子どものほうも一緒になって興味を持っておもしろがることができるんですよね。(p.192)

先生方も、学ぶことを楽しまないと、子どもたちに「勉強しろ」と言えるはずなんてないと思うのです。あ、これはまあ親も一緒だけどね。
以下、メモ。

p.19
学力
 学んだ力
  →知識と(狭義の)技能(測りやすい)
  →読解力、論述力、討論力、批判的思考力、問題解決力、追求力
  =測りにくい
 学ぶ力
  →学習意欲、知的好奇心、学習計画力、学習方法、集中力、
   持続力、(教わる、教えあう、学び合うときの)コミュニケーション力
  =測りにくい

p.21-22
神奈川県藤沢市が1965年度から5年毎に中3を対象に実施している学習意識調査:
(もっと勉強したい、という生徒は激減。もう勉強はたくさんだ、という生徒は増えている)
http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kyobun-c/page100098.shtml

p.40
何のために学ぶのか?
 →「なりたい自己=なりたいイメージの選択肢」と「なれる自己=いまの自分の延長として何になれそうか」を広げるため、と答えたい。

p.71-74
研究者になってみる活動=RLA(Researcher-Like Activity)
・研究者の行なっている探究活動が、子どもの本来的な興味・関心に根ざしている
・研究者の活動には、因果関係の推論、自分の考えの論理的な主張、他者の意見の批判的な検討など、一版の市民生活を営む上での共通要素がかなりある

「生徒たちのほとんどは、数学者になるわけではないでしょう。しかし、追求して表現することのおもしろさを知るということは、「なりたい自己」の選択肢を大きく広げるものとなりえます。また、この活動で得た問題設定力、問題解決力、表現力などは、確実に「なれる自己」の選択肢をも広げていくはずです。」

p.76
城南高校 ドリカムプラン

p.88
「教え込み」でもなく、「教えずに考えさせる」でもない授業展開
=「教えて考えさせる授業」

教科書も積極的に使う。
教科書は、国語の説明文のようにていねいに「読んでいく」ことさえあってよいと思う。

p.92-93「
「人に説明がきちんとできるかどうか」ということを、一つの目安にさせます。例えば、「本当によくわかったのなら、教科書を見なくても、同じことを黒板の前に出てできるはずだし、質問されても答えられるはずだね」。そういうつもりで見てみると、小学校の教科書でも、私たち大人が読んでさえ、わからないところが出てくるものです。「この文章は何を言いたいのだろう」、「この図は何を意味しているのだろう」ということがけっこうあるのです。
「教科書を見たらわかってしまって、興味をなくすのではないか」と思う先生がいるかもしれません。しかし、実際には、教科書を見ることによって、そこをわかりたい気持ちが芽生えてきたり、新たな疑問がわいてくるということは、たくさんあるのではないでしょうか。あるいは、予習や塾で先取り学習をしている子も、説明させてみると、実はよくわかっていないことが自覚されるはずです。わかった気になっているだけのことが多いのです。」

p.100「
「教えて考えさせる授業」の話をすると、最初は誤解による反発もかなり受けます。まず、「あなたは、何でも教師から教えてしまえと言うのか」「問題解決学習を否定するのか」という反論があります。しかし、「教えて考えさせる授業」は、問題解決学習を重視しているのです。ただ、問題解決場面をどこに入れるのかというと、単元の最初に入れるのではなくて、むしろ基礎的な内容の説明をして、それを理解させてから問題解決にもっていくのです。」

p.120
記憶の実験に使った素材

p.162
学習ゼミナール
http://coref.u-tokyo.ac.jp/consortium/resource.php?mode=read&id=47

p.163
遊びと学びゼミナール

p.192「
実際、総合学習でいうと、うまくいっているというところは、先生自身が感動して、その授業を楽しんでいる。社会科の授業でいろいろな人の生き方を子どもたちに見てもらうということで、一般社会人の人と子どもたちが交流するという実践を見たことがあるんですが、一番楽しんでいたのは先生です。
先生自身は、学校というところにずっと勤めていて他の社会を知る機会が少ない。授業で、エンジニアの人、農家の人、いろんな人を呼ぶと、そういう方々から先生も学ぶことができる。そして、そういう先生の姿を見ていると、子どものほうも一緒になって興味を持っておもしろがることができるんですよね。」

p.196「
子どもがたまたま飛びついたものに、「ああ、それはいいからがんばりなさい」というだけだと、親にしろ、先生にしろ、それは無責任だと私は思います。子どもがサッカー選手になりたいと言ったとする。さほど運動能力も高くない子がテレビでサッカーを見て、「僕、サッカー選手になる!だから、別に数学はいらないよ」と。そこで、「じゃあ、その道でがんばりなさい」と言ってしまう親は無責任です。
「なりたい自己と、なれる自己を広げる」という言い方を私はしますが、いろいろな大人の姿を見ていないのに、たまたま、「あれがいいや」といって安易に飛びついてしまうということが子どもはあるわけです。ですが、もしもなれなかったときに、その子はどうなるのか。「タレントになる」と言い出したとしても、もっとさまざまな道もあるということを、子どもの頃にたくさん見てほしい。」

ダニエル・ピンク『モチベーション3.0 接続する「やる気」をいかに引き出すか』

モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか

モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか


最後に「Twitter向けのまとめ」というのがあって、そこでモチベーション3.0とは…とちゃんと定義がされています。

アメとムチは全盛期の遺物。<モチベーション3.0>によると、21世紀の職場では、<自律性><マスタリー><目的>へとアップグレードが必要。

また、モチベーション3.0の動機づけを用いた教育実践をしているアメリカの学校も紹介されています。(p.245-248)

モチベーション3.0の動機づけにあふれている教育を実践しているアメリカの学校:

 学生が自分で管理するスタイルの学校を全米で運営している。
 生徒は基礎教科を学び、その基本を用いてコミュニティで実際に仕事をし、その他のスキルを獲得する。
 この過程はすべて、経験豊富な成人の指導者のもとで実施される。

 ゲーバー・タリーが創設した実験室といった趣のサマースクール。(TEDトークで「子どもたちにやらせるべき5つの危険なこと」で学ぼう)
 午前7時から午後5時まで、子どもたちはこの学校で、さまざまな材料を使って何かおもしろいものを作れる。実際に使えるファスナー、オートバイ、歯みがきロボット、ジェットコースターなどを創作してきた。

 生徒に驚くほどの自律性を与えている小規模な私立校@ワシントン州シアトル。
 生徒一人ひとりにパーソナルコーチの役割を果たすアドバイザーがつき、それぞれの学習目標の設定を手伝う。

 子どもは本来学びたいことをひとりでに定め、自主的に学ぶ性質を持っている。

いろいろと参考になります。
以下、メモ。

p.278
第一の動機づけ:
飢餓動因、渇動因、性的動因などの生物学的な動機づけ

第二の動機づけ:
周囲からの報酬や罰に対して反応するもう一つの動機づけ

第三の動機づけ:
内発的動機づけ

p.134-136
アトラシアンの新しい試み:

  • 通常業務と無関係でも何か解決したい問題があれば、一日中自発的に取り組んでもよい、という日を設けた。
  • 3ヶ月に一度、エンジニアたちがソフトウェアのことならどんな問題にでも取り組める「風変わりな日」を儲けている。
  • 木曜日の午後2時にイベントが始まり、多くの者が夜を徹して作業する。そして明くる日、金曜日の午後4時に冷えたビールとチョコレートケーキがふんだんに用意された全員参加のミーティングで、その成果を披露する。


Task、Time、Technique、Teamの4つについて自律性を与えることが大切。

p.245-248
モチベーション3.0の動機づけにあふれている教育を実践しているアメリカの学校:

 学生が自分で管理するスタイルの学校を全米で運営している。
 生徒は基礎教科を学び、その基本を用いてコミュニティで実際に仕事をし、その他のスキルを獲得する。
 この過程はすべて、経験豊富な成人の指導者のもとで実施される。

 ゲーバー・タリーが創設した実験室といった趣のサマースクール。(TEDトークで「子どもたちにやらせるべき5つの危険なこと」で学ぼう)
 午前7時から午後5時まで、子どもたちはこの学校で、さまざまな材料を使って何かおもしろいもを作れる。実際に使えるファスナー、オートバイ、歯みがきロボット、ジェットコースターなどを創作してきた。

 生徒に驚くほどの自律性を与えている小規模な私立校@ワシントン州シアトル。
 生徒一人ひとりにパーソナルコーチの役割を果たすアドバイザーがつき、それぞれの学習目標の設定を手伝う。

 子どもは本来学びたいことをひとりでに定め、自主的に学ぶ性質を持っている。

p.277-278
Twitter向けのまとめ
アメとムチは全盛期の遺物。<モチベーション3.0>によると、21世紀の職場では、<自律性><マスタリー><目的>へとアップグレードが必要。

◆カクテルパーティー向けのまとめ
モチベーションの話となると、科学の知識とビジネスの現場にはギャップがある。ビジネスにおける現在の基本ソフト(OS)は、外部から与えられるアメとムチ式の動機づけを中心に構築されている。これはうまくいかないし、有害な場合も多い。アップグレードが必要なんだ。科学者たちの研究成果がその方法を示している。この新しいアプローチには3つの重要な要素がある。一つは<自律性>――自分の人生を自ら導きたいという欲求のこと。二番目は<マスタリー(熟達)>――自分にとって意味のあることを上達させたいという衝動のこと。三番目は<目的>――自分よりも大きいこと、自分の利益を超えたことのために活動したい、という切なる思いのことだ。

清野博子『最新現場報告 子育ての発達心理学 ― 育つ育てられる親と子』


子どもはかわいいなあ、天使だなあ、とかは、自分の子どもも含めてたいして思わないのですが(笑)、「7つまでは神のうち」っていうのはそうだなあ、と思うよ。
子育ての中で、どんなふうに子どもの発達を見ていけばいいのか、というリサーチの中で、発達心理学に最近興味あり。
京都大学名誉教授 田中昌人さんによる、4つの発達の力が、とってもいいなあと思う。(p.53)

  • 生後第一の「新しい発達の力」(生後4ヶ月)=受け身で笑うのではなく、自分から相手を見て笑うようになる。:「人知りそめしほほえみ」
  • 次の新しい力(生後10ヶ月)=ちょうど自我の芽生える頃:「われ知りそめし力」
  • 生後第三の「新しい発達の力」(5歳半ば)=経験の中でものごとを学ぶ「ことわり(理)知りそめし力」
  • 生後第四の「新しい発達の力」(14歳ごろ)=抽象的な思考ができるようになり、おとなになっていく。

以下、メモ。

p.35
「7つまでは神のうち」

p.45
5ヶ月半
手の届かないものに手を伸ばす

「手を伸ばせば、大人がものを持ってきてくれるか、そこへ連れて行ってくれる。おとなの動きを予期しているのですね。他者との関係の中で、手の届かない対象にまで欲望の世界を広げることを、人間はわずか生後6ヶ月前後で知ってしまう。」

p.48
1984年
「年齢別の発達課題と保育課題の関連表」(大阪教育大 秋葉英則氏の助け)

大阪保育研究所『年齢別保育講座』

p.53
生後第一の「新しい発達の力」(生後4ヶ月)
受け身で笑うのではなく、自分から相手を見て笑うようになる。
「人知りそめしほほえみ」

次の新しい力(生後10ヶ月)
ちょうど自我の芽生える頃
「われ知りそめし力」

生後第三の「新しい発達の力」(5歳半ば)
経験の中でものごとを学ぶ「ことわり(理)知りそめし力」

生後第四の「新しい発達の力」(14歳ごろ)
抽象的な思考ができるようになり、おとなになっていく。

(以上、京都大学名誉教授 田中昌人さん)

p.62-63「
一歳くらいの子は、目の前にある四角形の穴に入れようと、
ガタガタとするが、入らない。それが一歳半ごろになると、反対側の位置にいった丸い穴を見つけて、正確にはめ込むことができる。
「丸や四角形のかたちがわかること以上に、こっちではなくて、あっちだと見比べて、決めることができるということです」
と服部さん。
この力が充実すると、昼寝のとき、これまでは、頭からふとんにもぐり込んでいたのが、足から入ることができる。段差のあるところでは、くるりと後ろを向いて、足から下りることができる。「頭から」を「足から」に、「前向きき」を「後ろ向き」へと二重に方向転換ができるようになる。
「直線的にしかぶつかれなかった世界から解放され、方向転換を随所に使って、発達的自由を発揮するようになったのです」
と、これは田中さんから聞いた。」

p.63-64「
「靴下をはきなさい」といわれて、「いや!」と首を振る子に、模様の違う二種類の靴下を見せて、「どっちをはく?」と自分で選択させると、さっさと自分で決めて、はく。(略)
「いや!」と主張する一歳半の自我に対して、「だめでしょ」「いけません」と追い込み、パキッと折らせる対応をしていると、「我慢することしか覚えない」と服部さんも忠告する。人に指示されると動くが、自分で考えて、決めていける子には育たない。」

p.76
ボキャブラリー・スパート:
一歳後半になり、急激に語彙が増加する現象

p.94
バージニア・リー・バートン『せいめいのれきし』

p.97-98 「
それから約20年後の1982年、国立国語研究所が同じ調査(4歳から9歳の子どもの概念化の発達過程)を追試したところ、子どもの概念化は清水さんの調査時より1年以上早くなっていた。幼児番組、絵本の増加、幼児教育くの普及などによる発達の加速化現象かもしれないと分析された。
(略)たしかに外から強い刺激を与えれば、子どもは知識を覚える。何かができるようになる。しかし、そんなに急いで幼児期を駆け抜けるのは危ない。
発達は、二つの側面を統合して達成される。一つは、外の世界の秩序、行動する型を学び、適応していく過程。もう一つは、経験をいったん自分の中に取り入れて発酵させ、自分だけの内なる世界を形成していく過程。
過剰な刺激をさらされ、せかされて、見せかけの適応をしても、内なる世界がしっかり育っていないと、自我を確立すべき思春期に、自分が何者かわからなくて、破綻してしまう。幼いときの時間をゆっくり使って、自分の内なる世界をしっかり築いておく必要があるのだ。」

p.112 「
「うちの子は、自分のものと他の人のものとの区別がつかなくて、だれのものでも使ってしまう」と嘆く親がいる。こういう場合い、「これはお父さんのでしょ」「これはお兄ちゃんの」と教えようとしがちだが、それは反対だと服部さんはいう。
ほかの人のことを先にわからせるのではなくて、○○ちゃんのイス、○○ちゃんのお茶わんと、その子の大事なものをまず確保し、尊重する。自分が選び、つくり上げたものをきちんと受け止めてもらう結果として、あれはぼくのとは違う、私のではないと、相手のものがわかる。
「自我が落ち着く場所、その子なりの選択を、どれだけ大事にしてもらっているかが、ほかの人のものを尊重できるかどうかにかかわってくるのです」
そこを先急ぎして、ほかの人のものを教えようとしても、子どもは区別ができない。」

p.177
泥だんごづくりの魅力
京都教育大学教授 加用文男さん

古賀茂明『日本中枢の崩壊』

日本中枢の崩壊

日本中枢の崩壊


まあ、賛否両論、いろいろあるのでしょうが…。それにしてもこういう意見を持つ官僚が、きちんと仕事をさせてもらえない、っていうのは悲しい国だよなあ。巻末に東京電力の処理策が内緒で転載されているのだけど、こんなにしっかりしたのが官僚の中からあがっているのに、なんでこんな後手にまわった対応になるのか…。システムが悪いとしか思えないじゃないか…。
いわゆるキャリア官僚の人には、何人か会ったことがあるのだけど、みんなとっても国のことをしっかり考えている人たち。「国を変えたい」と本気で思ってるし、できることをいろいろと実際に考え、忙しい中でベストを尽くしている人たち。それがどうして正当に評価されなくて、ちゃんとやろうと思うとできなくて、国民の得になってない…。しかも官僚バッシング。
もう、民間でも優秀なチームを作って、政権が変わるときにはブレーンをがっつり連れて官邸に入るようにしようよ、アメリカみたいに。小泉政権のときにあった、竹中・飯島両氏がブレーン体制を、しっかり作れるように、民間からも優秀な人をどんどん送り込もう。そのために、国に希望が持てるように、教育をやろう。僕がやりたいのは、僕が役に立てるのは、たぶんあるとすれば、そこだ。
以下、メモ。

p.314-315「
仮に菅総理が、
「これからはビジネス、ビジネスで行こう。国民みんなで金儲けしようではないか。そこらじゅうにチャンスは転がっている。日本にはこんなに高い先端技術がある。優秀な人材もいる。使い切れていないカネもまだまだある。みんなが思い切り活躍できるように、政府は聖域なき改革に邁進する。だから、自信を持ってみなさん一人ひとりがチャレンジしてもらいたい。そして、企業はたくさん稼いで、働く人は給料をたくさんもらおう。株にも投資して、さらに資産を増やそう!もし、挑戦してそれで倒れたときは政府が責任を持って助ける」
と力説し、「最大幸福社会」の構築を目指すとぶちあげれば、国民の意識が変わっていただけではなく、世界も日本を見直していただろう。政治が内向きで、しかも混乱し、世界を見ていないのでは、国民の意識も変わりようがない。
(略)
東日本大震災が日本人の心理に与える影響について、ロンドンの『エコノミスト』誌は次のようにいっている――日本人はこの震災を機に、自らの対応能力と世界から寄せられる畏敬の念によって自信を取り戻すかもしれない、と。われわれはこの期待に応えられるような社会を作らなければならない。」

p.334-335「
以下は、ある中国人経営者が私にいった言葉である。
「日本人は中国人には勝てない。なぜなら、日本では管理職や経営者までが汗を流すこと、会社に拘束されることが美徳だと思っているからだ」
「いかに頭を使うか。いかに人と違うやり方を考えるか。いかに効率的に答えを見つけるか。いかにスピーディに決断し行動するか。それが経営者の競争だ」
「労働者に生きがいを与えて一生懸命働かせるために、『汗水たらして働くことが尊い』と教えるのは当然だが、経営者が同じことをしていたら競争に負ける。労働者の生活も結局は良くならない。中国人と同じ給料で働けということになる」
「日本人は何をするにもみんなで寄り集まって夜まで議論して結局決まらない。中国の経営者は即断即決。いかに効率的に儲けるかを考えている。これでは日本は勝負にならない。経営が悪いから、日本の労働者は、一生懸命働いてもどんどん生活を切り下げるしかなくなるのだ。ただ働くことが尊いという考えからいつ抜け出せるかが日本復活の鍵だ」
中国は、いまは先進国モデルを追いかければ良い時代。ただモノマネをして働けば成長できる段階にある。しかし、その中国人に、日本人は頭を使うことより手足を動かすこと、拘束されることを優先しているといわれている。」

p.353「
東日本大震災ではユニクロの柳井正氏が10億円、楽天の三木谷浩史氏も10億円、そしてソフトバンクの孫正義氏が100億円という巨額の義援金を寄付した。しかし、既存の大富豪といわれる人たちが、そうした巨額の寄付をしたという話を聞かない。若手のベンチャー経営者のなかには、現地に入って支援活動を行った人もいると聞く。
「売名行為」などという人もいるが、そう批判する人たちは、自分ではいったい何をしたというのか。たくさん稼いでたくさん使う。それだけでも十分、所得税や消費税で貢献している。さらに個人で社会貢献をしてもらえれば、これほどすばらしいことはない。
もう金持ちを妬んだり敵視したりするのを止めて、日本経済を引っ張ってくれる新たな産業の担い手たちに一切足かせをはめず、自由に活躍してもらおうではないか。妬みの文化では、国民全員がジリ貧の方向に行くしかなくなる。」

p.353-354「
これからの政治に一番重要なのはリーダーシップだとよくいわれる。私も総理のリーダーシップこそがこの国を変えると思っている。
菅総理は「最小不幸社会」といった。「最小」と「不幸」。ネガティブな言葉を重ねたメッセージが若者にどう響いたか。「元気を出してがんばろう」とはならない。「なんとか不幸になるのを避けよう」「安全な道を選ぼう」となるだろう。「『できる人は損する』という感じかな」とある若者は私につぶやいた。
オバマ大統領が「Yes」と「Can」という肯定の言葉を重ねて「Yes We Can」といったとき、若者は「よし、挑戦しよう」と呼応したのではないか。
リーダーシップと一口にいっても、様々な要素があるが、とくに今後、国のトップに求められるのは、国民を説得する力だ。」

p.360
東京電力の処理策
#こんなにしっかりしたのが官僚の中からあがっているのに、なんでこんな後手にまわった対応になるのか…。システムが悪いとしか思えないじゃないか…。