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内田樹『寝ながら学べる構造主義』

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寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)


大学時代は本当に好きで現代思想系の本をよく読んでいた。でも、「構造主義」はあまり好きじゃなかったんだよね。自分が動けば何かが変わる、という「実存主義」の方が好みだった。その構造主義を、内田樹さんがどんなふうに書いているのかな、と興味を持って読んだ。
「「分かりやすい」と「簡単」は似ているようで違う」として進められる論。ニーチェの思想から師の視座の獲得の話に行ったり、フーコーの権力論から体育座りの権力性の話に行ったり、おもしろい話あり。以下、メモ。

p.12

知的探求は(それが本質的なものであろうとするならば)、つねに「私は何を知っているか」ではなく、「私は何を知らないか」を起点に開始されます。そして、その「答えられない問い」、時間とは何か、死とは何か、性とは何か、共同体とは何か、貨幣とは何か、記号とは何か、交換とは何か、欲望とは何か…といった一連の問いこそ、私たちすべてにひとしく分かち合われた根源的に人間的な問いなのです。


p.14

「分かりやすい」というのは決して「簡単」という意味ではありません。「分かりやすい」と「簡単」は似ているようで違います。どちらかというと、私はむしろ「話を複雑にする」ことによって、「話を早く進める」という戦術を採用しています。


p.20

マルクス主義が支配的なイデオロギーであった時代」というのは、みんながマルクスの本を読んでいた時代のことではありません。そうではなく、マルクス主義思想や運動についての批判的記述が、もっぱらマルクス主義の用語や概念を使ってしか試みられないことを誰も「変だ」と思わなかった時代のことです。


p.44
ニーチェはギリシャ人の異他的なものに対する「共感の仕方」に「共感」しているのです。
これは、ずいぶん変わったアプローチに見えますが、遠い時代の、遠い祖先の経験を伝承するための方法としては、実はたいへんに正統的なやり方なのです。
技芸の伝承に際しては、「師を見るな、師が見ているものを見よ」ということが言われます。弟子が「師を見ている」限り、弟子の視座は「いまの自分」の位置を動きません。「いまの自分」を基準点にして、師の技芸を解釈し、模倣することに甘んじるならば、技芸は代が下がるにつれて劣化し、変形する他ないでしょう。(現に多くの伝統技芸はそうやって堕落してゆきました。)
それを防ぐためには、師その人や師の技芸ではなく、「師の視線」、「師の欲望」、「師の感動」に照準しなければなりません。師がその制作や技芸を通じて「実現しようとしていた当のもの」をただしく射程にとらえていれば、そして、自分の弟子にもその心像を受け渡せたなら、「いまの自分」から見てどれほど異他的なものであろうと、「原初の経験」は汚されることなく時代を生き抜くはずです。


p.104
権力が身体に「刻印を押し、訓育し、責めさいなんだ」実例:体育坐り(竹内敏晴『思想する「からだ」』)
・両手を組ませるのは「手遊び」をさせないため
・首が左右に自由にうごかないため、注意散漫になることを防げる
・胸部を強く圧迫し、深い呼吸ができないので、大きな声も出せない
・1958年に文部省から学校に通達。身体の政治技術の行使の実例だ。