鷲田清一・釈徹宗・内田樹・平松邦夫『おせっかい教育論』

おせっかい教育論

おせっかい教育論


ちょっと前に読み終わってたんだけど、今さらとりまとめ。こうして4人の対談本を読んでも、「お!」と思って抜書きするのは、内田樹さんと鷲田清一さんのパートばかり。

内田樹
「それなりのクオリティの教育を受けたいなら、それなりの金を払え」というようなドライな言い分が一方にあり、「教育を受けたくないと自己決定した子供には教育を受けない権利がある」という一見するとリベラルで「政治的に正しげ」な言い分が声高に語られ、それに挟撃されて、教育は崩壊しつつある。どちらの場合も個人の事情が最優先させられている。「自己利益を最大化したい」「自分らしく生きたい」という「私」の言い分が優先させられていて、共同体の存否については誰も語らない。
「どういう教育であるべきか」という問いは、何よりも「共同体が生き延びるために」という目的が掲げられなければならない。(p.28)

まったくだ。教育は、社会を作るためのものだと思っているので、全体を良くするために、どんなことを教えればいいのかを考えるべき。そういうグランドデザインを語れる人がいないとダメだよねえ。明治維新政府は、このグランドデザインをちゃんと持っていた、っていうことよね。「列強に追いつき、国を守る」。そのために最善な形として教育システムを作ったってことだから。
で、そういうマクロな話はありつつも、それとは別に、ミクロな「学び」の話も。

鷲田清一
この本で並んで語り、書いている内田樹さんがどこかで書いておられたと記憶するが、実在の、あるいは書物のなかのひととの出会いをきっかけに、それまでより「もっと見晴らしのよい場所に出る」ということが、「まなび」の意味だと、わたしもおもう。
「出会い」、この言葉が甘ったるければ「じぶんが打ち砕かれる経験」と言い直してもよいが、それは予測できないかたちで起こるものだから、その意味で、「まなび」は学校の管理者によって囲い込まれるはずのないものだ。(p.92)

賛成です。打ち砕かれる経験こそ、子どもたちに与えてあげたいと思います。大人に打ち砕かれもしなければ、社会なんておもしろいと思えないし、社会に出て何やろう…なんて考えるはずもないと思ってるので。大人の背中、できればとびきり立派なやつを(それは、悩んでる背中でももちろんいい!)見せてあげたいと思います。
以下、いろいろとメモ。

p.28(内田樹)「
「それなりのクオリティの教育を受けたいなら、それなりの金を払え」というようなドライな言い分が一方にあり、「教育を受けたくないと自己決定した子供には教育を受けない権利がある」という一見するとリベラルで「政治的に正しげ」な言い分が声高に語られ、それに挟撃されて、教育は崩壊しつつある。どちらの場合も個人の事情が最優先させられている。「自己利益を最大化したい」「自分らしく生きたい」という「私」の言い分が優先させられていて、共同体の存否については誰も語らない。
「どういう教育であるべきか」という問いは、何よりも「共同体が生き延びるために」という目的が掲げられなければならない。」

p.92(鷲田清一)「
この本で並んで語り、書いている内田樹さんがどこかで書いておられたと記憶するが、実在の、あるいは書物のなかのひととの出会いをきっかけに、それまでより「もっと見晴らしのよい場所に出る」ということが、「まなび」の意味だと、わたしもおもう。
「出会い」、この言葉が甘ったるければ「じぶんが打ち砕かれる経験」と言い直してもよいが、それは予測できないかたちで起こるものだから、その意味で、「まなび」は学校の管理者によって囲い込まれるはずのないものだ。」

p.95(鷲田清一)「
模倣は他人の受け売りのことではない。他者のふるまいをなぞることで、「魂が打ち開かれる」ことである。冒頭でも引いたこの「打ち開かれる」という語も、じつはベルクソンのこの本(『道徳と宗教の二つの源泉』)から引いたものである。「まなび」が、このように「魂が打ち開かれる」あるいは「動かされる」経験だとすれば、それはこれまでのじぶんが砕け散るという体験をつねにともなう。壁にぶち当たらずに、道を逸れずに、まっすぐ進むというのではなく、つまずく、揺れる、迷う、壊れる…ということ、そこからしか「まなび」は始まらない。その意味では、落ちこぼれや挫けもまた、大事な「まなび」のプロセスなのである。」

p.166(鷲田清一)「
最近の大学生は、就職活動を前にして「自分がしたいことが分かりません」とよく言いますが、「自分がしたいこと」から考えはじめるところに、他人たちから自分が何をすべく待たれているかという視点は、きれいに欠落しています。「務め」という観点がない。職業のこと、とくに天職とか使命という意味合いでの職業を、英語で「コーリング」と言いますが、ここには、自分が何かをすべく誰かから呼びかけられているという感覚がこもっている。」