和田秀樹『エリートの創造 和田秀樹の「競争的」教育論』


エリート教育とは何ぞや、という観点からの教育論。ゆとり教育推進のメインテーマは、知識偏重云々ではなくて、「できる者をかぎりなく伸ばすこと」という三浦朱門さん(当時の教育課程審議会会長)の言葉が紹介されています。これに関しては、学習指導要領は最低限度だ、ということに方針が変わったので、ばっちりクリアした、というわけですね。
その他、エリートとはどうあるべきかという「ノブレスオブリージェ」の話や、日本に昔あったエリート教育の形としての旧制高校の話など。
いちばんいいな、と思ったのは以下のところ。エリートってなんだか選民主義みたいな色合いがあるけど、そんなことじゃないんだよ、って話です。

エリートというのは、言葉の定義上エスタブリッシュメントのように身分が保証されたものではなく、競争に勝ち残った勝者とその候補生のことである。もし、エリートとされる人が若手の台頭で、若い人たちに能力的に負けるようなら、その座を退くべきだし、それでもその座に執着があるのならもう一度チャレンジすべきだろう。社長業であれ、官僚のトップであれ、大学教授であれ、まさに将棋の名人位のようなものである。逆に、若い者に負けてもいないのにその座を退く必要はない。(p.262)

トップの人は、それ相応の努力をして、それ相応の能力を持っていて、それ相応の責任を果たしている、ということ。
前の会社で事業部長の1人が若手を前にして、「俺を超せるんやったら超してみぃ。まだ当分、負ける気はせんけどな」とうそぶいていたのを思い出した。でも、そうして下から優秀なのがのし上がってきて、切磋琢磨して…というのはごくまっとうなやり方だと思うのです。自分はまだ下からのチャレンジャー。「じゃあ、どんなふうに教えられるんですか?」と学校の先生に質問されることも多い仕事。そこで圧倒的なノウハウや情報やスキルを見せつけて、上にのし上がっていくのが道だな、と思った。
以下、メモ。

p.8
ゆとり教育推進のメインテーマは、学校のカリキュラムが過密すぎる、あるいは知育偏重が過ぎて、心の荒れにつながる、ということではなかった。

三浦朱門(当時・教育課程審議会会長)
「戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者をかぎりなく伸ばすことに振り向ける。100人に1人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。(中略)国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければいけません。それが“ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育と言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ。(中略)メンバーの意見もみんな同じでした」(斉藤貴男『機会不平等』p.40-41)


p.14
メタ認知
真にすぐれた判断をするためには、自分の知識状態や推論が、自分の立場や感情に振り回されたものでないかをモニターし、チェックし、修正することが必要。


p.14-15

金を貪欲に求める金持ちが多いとされているアメリカでも、ブッシュが選挙公約として相続税の撤廃を行おうとした際、ジョージ・ソロスビル・ゲイツ・シニアのようなアメリカを代表する富豪たちはこぞってこれに猛反対したという。そんなことをしたら、何の努力もしない金持ちの子どもが金持ちで居続けるだけで階層が固定化してしまう、「アメリカの国力」を損なう愚策だ、というわけである。私はこの報道を耳にして、これこそエリート道というものだと感激した記憶がある。


p.194-195
旧制高校の特徴

  • 入学するまでは基礎学力を重視しながら、入学後は、学問のベースを叩き込まれる。
  • 帝国大学での専門教育のための準備期間。
  • 年間の欠席日数が1/3を超えると落第。
  • 第1外国語が60点を割ったり、全科目の平均点が60点に満たないときも落第。
  • 英語は必修。その上にフランス語かドイツ語が義務付け。
  • 生徒達が醸し出すエリートの雰囲気:学校の勉強だけではばかにされ、哲学や文学の教養の高さが要求される。
  • お互いが足を引っ張り合うことなく、お互いが学問を支え合う。
  • 自治と自由が任される中、自分たちが国を背負うべきなのだという誇りと自負があった。
  • 原則的に全寮制だったため、退寮は退学を意味する。一定のルールが守れる、ある程度の社会性がある、ということが寮にいられる条件となる。


p.232
認知心理学的な「頭がいい」条件:

  1. 考える材料として十分な知識があること
  2. その知識をもとに幅広く、また適切な推論ができること
  3. さらにその上で、自分の知識や推論状態を適切に判断して、それを問題解決に生かせるメタ認知能力があること


p.252

受験勉強は認知心理学的な頭のよさのトレーニングになるのである。
むしろ、前にも述べたことだが日本の大学の、大学に入ってからの教育があまりに悪い。


p.262

実際、先のゆとり教育政策への進言にしても、経済政策にしても、日本の審議会を牛耳る大学教授たちが10年前、20年前の理論に基づいて行ったものだから、あのような内容になっているといわれる。たとえば、ゆとり教育、総合学習、創造性重視の教育はアメリカが20年くらい前に捨てたものだが、それまではアメリカ国内でも礼賛されていたものだ。その頃に留学した(おそらく当時は助教授クラスだったのだろう)教授たちが、教授になってから勉強をしなかったために、アメリカが最近詰め込み教育に回帰したことを無視して、日本でこのような教育政策を断行するのに手を貸す形で審議を行い、それにストップをかけられなかったのが真相であるらしい。
エリートというのは、言葉の定義上エスタブリッシュメントのように身分が保証されたものではなく、競争に勝ち残った勝者とその候補生のことである。もし、エリートとされる人が若手の台頭で、若い人たちに能力的にまけるようなら、その座を退くべきだし、それでもその座に執着があるのならもう一度チャレンジすべきだろう。社長業であれ、官僚のトップであれ、大学教授であれ、まさに将棋の名人位のようなものである。逆に、若い者に負けてもいないのにその座を退く必要はない。