糸井重里『智慧の実を食べよう』

智慧の実を食べよう。

智慧の実を食べよう。


「Don't trust over 80.」という副題はいい感じだと思う。やっぱり、何かを成し遂げている老齢の人たちのいうことってのは、滋養を含んでいる気がします。こういうおじいさん・おばあさん(この本ではおばあさんは出ないけど)の言葉を、もっと若者に届けられるような仕組みを作りたいなあ、と思う。

以下、メモ。

p.90

藤田元司さん・野球解説者)
やっぱり1つのことを一生懸命集中してできたっていうとき、人って変われるんじゃないかと思うんですね。だから子供たちにも「何でもいいから一つ見つけろよ。それを徹底的にやってみろよ。そうすればそこに何かあるよ。たとえ何も見つからなくても、やっただけいいじゃないか」というようなことをよく話すんです。自分にとっては野球というものがあったもんですから。


p.91

藤田元司さん・野球解説者)
しかし、やることをやり抜かないと強さというのは出てこないし、優しさも出てこないんじゃないかと思うんです。
物事を徹底的にやり抜いた人というのは、ものすごく優しいですね。王貞治君にしても、長嶋茂雄君にしても。裏側はあんまり見えませんけど、遠征先の合宿で一緒に寝起きしたりなんかしてじっと見てますと、すごい優しいんです。そのかわり、グラウンドへ入ると鬼みたいな顔になるんですね。


p.163

(小野田さん・(財)小野田自然塾理事長)
結局、考えてみますと、貿易商にいたときは立派な貿易商になってうんとお金をもうけようと思って、それらしく行動した。だから、その時代を知っている仲間は、「あんなナンパ半分のような男がよく戦争で三十年もやれたものだ」と言いますけど、兵隊になった以上はそうあるべきであって、軍人らしく努力したということなんです。そしてその次は、牧場を大きくするため畜産業者らしく一生懸命に働いたのです。
いわゆる「らしく」働くこと。どこへ放り出されても、どこへ流されようと、生きるために、あるいはそれらしく。ということは、自分の責任を全うするということでもあります。人々がみんなそれらしくやってくれると信用ができます。信用ができないということは、団結するということができなくなる。だれも信用できなければ、どうして私たちは集団の中で暮らすことができますか。信用できなければ周りが敵と同じなんですよね。あの人に頼めばこのことはやってくれる、自分はその代わり引き受けたことは必ずやる、だからお互いに信頼できるわけで、初めてそこで一つの社会、一つの集団が成り立つわけです。らしくやる−そのためには、と黄にy彫っては自分の命を懸けるということが必要なときもあるわけです。その命を懸けるということが、自分の意識している以上の力が出るということ。私の言いたいのはそこなんです。


p.223
「昨日のしみ」(武満徹作曲、谷川俊太郎作詞)
まっさらみたいに思えても
今日には昨日のしみがある
すんだことさの一言を
漂白剤には使えない
涙をシャワーで流すだけ

からだの傷さえ消えぬのに
心の傷ならなお疼く
ごめんなさいの一言を
鎮痛剤には使えない
痛みをお酒で癒すだけ

思い出したくなくっても
忘れられない日々がある
明日があるよの一言を
ビタミン剤には使えない
希望は自分で探すだけ
希望は自分で探すだけ