内田樹『先生はえらい』
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/01
- メディア: 新書
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先生という仕事をしていますが、あんまり「先生はえらい」と考えたことはありません。でも、この人と出会えてよかったなー、と思うことはたくさんあります。
以下、メモ。
p.11
「
もしあなたが「人生の師」と出会った後になってもまだ「先生と出会ったのは、まったくの偶然であった」と思っていたとしたら、残念ながら、あなたが出会ったのは先生ではありません。
先生というのは、出会う以前であれば「偶然」と思えた出会いが、出会った後になったら「運命的必然」としか思えなくなるような人のことです。これが「先生」の定義です。
」
p.35-36
「
私たちが「学ぶ」ということを止めないのは、ある種の情報や技術の習得を社会が要求しているからとか、そういうものがないと食っていけないからとか、そういうシビアな理由によるものではありません。
もちろん、そういう理由だけで学校や教育機関に通う人もいますけれど、そういう人たちは決して「先生」に出会うことができません。だって、その人たちは「他の人ができることを、自分もできるようになるため」にものを習いにゆくわけですから。資格を取るとか、ナントカ検定試験に受かるとか、免状を手に入れるとか、そういうことは「学び」の目的ではありません。「学び」にともなう副次的な現象ではありますけれど、それを目的にする限り、そのような場では、決して先生に出会うことはできません。
先生というのは、「みんなと同じになりたい人間」の前には決して姿を現さないからです。
」
p.81
学びと交易の類似性
「
交易が継続するためには、この代価でこの商品を購入したことに対する割り切れなさが残る必要があるのです。クライアントを「リピーター」にするためには、「よい品をどんどん安く」だけではダメなんです。「もう一度あの場所に行き、もう一度交換をしてみたい」という消費者の欲望に点火する、価格設定にかかわる「謎」が必須なんです。
」
p.172
「
自身の問いに答えを出すのは弟子自身の仕事です。師は「説教壇の上から」出来合いの学問を教えるのではありません。師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与えます。(ラカン「セミネールの開講」『フロイトの技法論(上)』岩波書店)
」