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佐伯啓思『経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へ』

経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へ (講談社現代新書)

経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へ (講談社現代新書)


佐伯啓思さんは、学生の頃に本当によく読んだ人。正統派な経済学者(というのがどういうのかわかんないけど…)ではなく、そこに思想が入っているなあ、と思っていた人でした。経済学に疑問を呈しつつ、前提に何を考えるべきか/考えないべきか、みたいなのが読めておもしろかった。

p.90-91
この20年ほどのグローバリゼーションにおける、勝者はアメリカ、中国、ロシア、インド、ブラジルなど。その理由は「国家(ステイト)」が強力であること。政治的指導者や指導層に集中された権力と政府の行政力が強力であること。

その強力な「国家の意思」によって、それぞれの国がそれぞれの国の特異な生産要素を戦略的に利用した、ということ:
中国→安価で豊富な「労働」という生産要素
ロシア→「資源」という生産要素
インド→英語や数学的能力にアドバンテージを持った知的層
ブラジル→「資源」という生産要素
アメリカ→ドル通貨の「資本」という生産要素
韓国→ナショナリズムという国民的結束と学歴エリートという「人的資源」を戦略的に作り出した

これらの国々は、アドバンテージを最大限生かすべき戦略を実行した。ここに強力な「国家の意思」があった。
「問題は透明で公正な市場経済を実現したかどうかではない。強力な国家を持ちうるかどうかなのである。グローバル市場が形成されるなか、市場や資源をめぐる激しい競争が生じる。そのさい、競争を自国に有利に誘導しうる戦略を持てる政府が存在するかどうかこそがポイントになってくるのである。」

p.102-104
市場経済の基本命題:
自由な競争的市場こそは効率的な資源配分を実現し、可能な限り人々の物的幸福を増大することができる。

この命題が成り立つためには、

  1. 人々が合理的に行動すること
  2. 経済活動の目的が物的満足であり、「実体経済」が経済の本質であり、貨幣はその補助的手段でしかないこと
  3. 人々の欲望も消費意欲も無限であり、資源が有限であることから、稀少資源をどう効率的に配分するかが経済の問題になる

しかし、この3つの前提はもう正しくないのではないか?以下の方が正しかろう:

  • 人々は常に不確定な状況の中で行動していて、合理的行動を本質的には定義し得ない
  • 貨幣は補助的な手段ではなく、人の生活を支える独自の価値を持ったもの。ときには貨幣そのものが人の欲望をかきたてる
  • 人間の欲望は社会のなかで他者との関係において作られる。それはあらかじめ無限なのではない。経済の問題は「稀少性の解決」へ向けた問題ではなく、「過剰性の処理」へ向けた問題になるのではないか

p.178-179
リスト(『経済学の国民的体系』岩波書店)による議論:
「自由競争の結果として市場が均衡することよりも、「生産諸力の均衡」が優先されるべきである。しかも彼にとっては、生産諸力を高めるものは、ただ物的な資源だけではなく、道徳性、宗教心、知識の増大、政治的自由、生命財産の安全確保、国民の独立などでもあった。ここに「国民」をことさら持ち出す意味もある。要するに、「国力」とは、諸産業のバランス、国民の道徳心、精神的気風など、その国の「総合力」なのである。
これからわかるように、リストにとっては、自由競争にたつグローバル市場などというものは何の国民的基盤をも持たない誤った「世界主義」にほかならなかった。
だから世界主義という理想主義の外観に惑わされてはならない。実は、スミスの自由市場論はただの誤った「世界主義」というだけではない。それは、普遍的原理どころか、イギリスの国富の増進を目指した「政治経済学」でもあった。そこに古典的自由貿易主義の隠されたイデオロギー性もあったのである。」

p.181-182「
「強い政府」と「大きな政府」とはまったく違っている。「大きな政府」を「小さな政府」に変更するためにも「強い政府」が必要とされるのである。」

p.311-312「
エマニュエル・トッドは、「民主主義」と「グローバル経済」は両立しえないと主張しているが、これはまったく正しい。さらに踏み込んで彼は、大衆の不満は、民主政治のなかからやがて独裁を生み出し、民主主義が停止されるだろう、と述べているが、これはかなりの蓋然性を持っている(『デモクラシー以後』)
もちろんそのことをトッドは歓迎しているのではなく、警鐘を鳴らしているのだ。だから、民主政治を守るために、グローバル経済のレベルを落とすべきことを主張するのである。
私は、このトッドの見解にほぼ全面的に賛同する。グローバル経済のレベルを落とすということは、各国の社会構造、文化、経済システムの多様性を認め、それぞれの国がその国の国内事情に配慮した政策運営を採用できる余地を増やすことである。自由主義者やグローバリストの嫌う言葉をあえて使えば、戦略的に「内向き」になることである。
「内向き」になることは、「鎖国」でもなければ「閉国」でもない。そもそも「外に開く」か「内に閉ざすか」などという二者択一はまったく無意味なのだ。いまだにそのような議論をする人が多いのは困ったものであるが、「内向き」とは、国内の生産基盤を安定させ、雇用を確保し、内需を拡大し、資源エネルギー・食料の自給率を引き上げ、国際的な投機的金融に翻弄されないような金融構造を作ることである。端的にいえば、「ネーション・エコノミー」を強化することにつきるのであって、スミスやケインズの考えの伝統に立ち戻ることなのである。私には、これこそが本来の意味での「自由主義」だと思われる。
今日の不安定な世界経済を見た場合、将来の方向性としては三つの選択肢があるだろう。第一は、メガコンペティションを動力とするグローバル化をいっそうおし進めること。第二は、世界的な経済管理機構を創出すること。第三は、グローバル化や自由競争のレベルを落とし、各国におけるそれぞれの国内経済の安定化政策を可能ならしめること。
今日の世界経済の不安定性をもたらしているものが過度の競争主義に立つグローバル資本主義だとすれば、第一をとることには意味がなく、第二は今日の政治状況のもとでは難しいとすれば、方向は第三しかない。「ネーション・エコノミー」の強化とその多様性の共存しかないはずであろう。これはほとんど自明のことのように私には思われる。」