古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち


とってもおもしろく読みました。SYNODOSでの対談「震災後の日本社会と若者 小熊英二×古市憲寿」では、小熊先生に注文もつけられていましたが、でもとっても楽しかった。次の若者世代を生み出す、初等教育の部分に自分が関わっていることもあって、古市さんの言葉は、「どう捉えたらいいだろう」といつも悩みながら聞くことになるのです。

日本国憲法第25条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定められている。「健康で文化的な最低限度の生活」は時代や社会状況に大きく依存するが、僕は「Wiiが一緒にできる恋人や友達のいる生活」や「モンスターハンターを楽しむことができる生活」あたりが妥当だと考えたことがある。
WiiやPSPを買えるくらいの経済状況で、それを一緒に楽しむことができる社会関係資本(つながり)を持っていれば、だいたいの人は幸せなんじゃないかと思ったのだ。
言い換えれば、僕は幸せの条件を、「経済的な問題」と「承認の問題」の二つに分けて考えていることになる。(p.243)

うんうん。そうかもしれない。一見、すでに不幸に見えないんですよね…じりじりと悪い状況に連れて行かれて、気づけばどうにもならない状況になってしまっていて手遅れ、というのだけは避けたいな、と思うな。

貧困は未来の問題だから見えにくい。承認欲求を満たしてくれるツールは無数に用意されている。なるほど、多くの若者が生活に満足してしまうのも頷ける。幸福度研究によれば、幸せを感じるのに大事なのは実際の所得水準よりも、社会問題を「認識」しているかどうかだから、「今ここ」を生きている若者ほど幸せなのは、当たり前と言えば当たり前である。(p.251-252)

まったくです。だからこそ、足掻きたいと本気で思ってます。「今ここ」を生きている若者に、遠くを見る目を見せる、気づかせることが大事だと思わずにいられないのです。いろーんな議論のヒントが詰まっているんじゃないかと思える本。お薦めです。
以下、メモ。

p.41「
1950年代中頃、マーケットやメディアが消費主体(お客様)としての「ティーン・エイジャー」を発見したと言い換えてもいい。「若者はお客様」論の誕生だ。
そりゃ、企業としては一番人口が多い年代をお客様にするのが賢い。人口比的に見れば、1950年代は今とは比べものにならないほど「若い」社会であった。1955年の時点で総人口の20.3パーセントが10代であった。」

p.51「
世代論というのは、そもそもかなり強引な理論だ。階級、人種、ジェンダー、地域などすべてを無視して、富裕層も貧困層も男の子も女の子も、日本人も在日コリアンも外国人もひっくるめて、ただ年齢が近いだけで「若者」とひとまとめにしてしまうのだから。
(略)
そして、この頃おそらく、「国民的」という言葉の意味するところが変わった。今では「国民的アイドル」とは「世代を超えて親しまれる」という意味だが、1960年代初頭までの「国民的アイドル」とは、「階級を超えて親しまれる」という意味だったのである。」

p.59-60「
若者論が終わらない一つの理由は、社会学で言うところの「加齢効果」と「世代効果」の混同だ。つまり、自分が年をとって世の中に追いついていけなくなっただけなのに、それを世代の変化や時代の変化と勘違いしてしまうのである。若者論に限らず、ほとんどの「日本人が劣化した」という議論もこれで説明できる。
さらに、若者論は自己の確認作業でもある。
「今時の若者はけしからん」と苦言を呈する時、それを発言する人は自分がもう「若者」ではないという立場に立っている。そして同時に、自分は「けしからん」異質な若者とは別の場所、すなわち「まっとうな」社会の住民であることを確認しているのだろう。
つまり、「若者はけしからん」と、若者を「異質な他者」と見なす言い方は、もう若者ではなくなった中高齢者にとっての、自己肯定であり、自分探しなのである。」

p.103-104「
「今日よりも明日がよくならない」と思う時、人は「今が幸せ」と答えるのである。これで高度成長期やバブル期に、若者の生活満足度が低かった理由が説明できる。彼らは、「今日よりも明日がよくなる」と信じることができた。自分の生活もどんどんよくなっていくという希望があった。だからこそ、「今は不幸」だけど、いつか幸せになるという「希望」を持つことができた。」

p.243「
日本国憲法第25条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定められている。「健康で文化的な最低限度の生活」は時代や社会状況に大きく依存するが、僕は「Wiiが一緒にできる恋人や友達のいる生活」や「モンスターハンターを楽しむことができる生活」あたりが妥当だと考えたことがある。
WiiやPSPを買えるくらいの経済状況で、それを一緒に楽しむことができる社会関係資本(つながり)を持っていれば、だいたいの人は幸せなんじゃないかと思ったのだ。
言い換えれば、僕は幸せの条件を、「経済的な問題」と「承認の問題」の二つに分けて考えていることになる。」

p.244-245「
しかし正社員と非正社員の違い、優良企業の社員とブラック企業の社員の違いは、彼らに「何か」あった時に明らかになる。たとえば病気になった時、結婚や子育てを考えた時、親の介護が必要になった時。社会保険に入っていたか、貯金があったかなどによって、取れる選択肢は変わってくる。」

p.248「
多くの若者にとって「未来の問題」である経済的な貧困と違って、承認に関わる問題は比較的「わかりやすい」形で姿を現す。未来の「貧しさ」よりも、今現在の「寂しさ」のほうが多くの人にとっては切実な問題だからだ。」

p.249「
同調査(国立社会保障・人口問題研究所の実施した調査)を受けて作家の津村記久子(32歳、大阪府)は、「ブスなら化粧で化けられるし、仕事がなくても、不景気だからと言い訳できる。でも、『友達がいない』は言い訳ができない。幼少期から形成されてきた全人格を否定されるように思ってしまう」と分析する。」

p.251-252「
貧困は未来の問題だから見えにくい。承認欲求を満たしてくれるツールは無数に用意されている。なるほど、多くの若者が生活に満足してしまうのも頷ける。幸福度研究によれば、幸せを感じるのに大事なのは実際の所得水準よりも、社会問題を「認識」しているかどうかだから、「今ここ」を生きている若者ほど幸せなのは、当たり前と言えば当たり前である。」

p.254
中国には、「都市戸籍」と「農民戸籍」という越えられない身分の壁がある。
実際、都市部に住む「農民工」と呼ばれる農村出身の労働者は、社会保障を受けられないし、子どもができても多くの公立学校は受け入れてくれない。

p.268-269「
どちらにせよ、明日すぐに日本が経済破綻したり、他国に侵略されるという状況は考えにくい。時間はある。この国が少しずつ沈みゆくのはどうやら間違いないけれど、これからのことを考えていく時間くらいは残されている。「奇妙」で「いびつ」な幸せはまだ続いていくだろう。
「日本」にこだわるのか、世界中どこでも生きていけるような自分になるのか、難しいことは考えずにとりあえず毎日を過ごしていくのか。
幸いなことに、選択肢も無数に用意されている。経済大国としての遺産もあるし、衰退国としての先の見えなさもある。歴史的に見ても、そんなに悪い時代じゃない。

戻るべき「あの頃」もないし、目の前に問題は山積みだし、未来に「希望」なんてない。だけど、現状にそこまで不満があるわけじゃない。
なんとなく幸せで、なんとなく不安。そんな時代を僕達は生きていく。
絶望の国の、幸福な「若者」として。」