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宇野常寛『日本文化の論点』

日本文化の論点 (ちくま新書)

日本文化の論点 (ちくま新書)


いま、いちばん仕事が気になっている人と言って間違いがないほどに傾倒しています、宇野常寛さん。
既存の仕組みを<昼の世界>とし、それに対して、新しく生まれつつある仕組みを<夜の世界>と対置させる。制度的に無理が来始めている<昼の世界>をどう変えていくのか?という方法論が非常におもしろい。ここで登場するのは昨年の大河ドラマで描かれた、平氏政権であり、鎌倉幕府
曰く、

<昼の世界>からは見向きもされない<夜の世界>で培われた思想と技術―ここにこの国を変えていく可能性が詰まっている。僕たちはそう確信しています。僕たちがやるべきことは、この<夜の世界>で培われた思想や知恵を用いて<昼の世界>を変えていくこと――それだけです。
しかし僕はその一方で、<昼の世界>に<夜の世界>の知恵を持ち込むことで内部変革していく、という筋書きを心のどこかで信じられていないところがあります。
2012年に放映されたNHK大河ドラマ平清盛』は、平安末期の平氏政権を朝廷という既存のシステムの内部改革者として描きました。とうに耐用年数の限界を迎えているにもかかわらず、既得権益の保守と前例踏襲の事なかれ主義が横行することで更新を拒むシステムに、理想主義的な内部改革者が挑む―。主人公・平清盛が瀬戸内海の海賊や平民出身の新興武士たちの力を借りてあたらしい世の中を切り開く姿は、まるで今日における日本において、<昼の世界>の理解者たちが<夜の世界>の住人たちである僕たちと手を取り合って世の中を変えていく姿のように見えました。
しかし僕はこのドラマに夢中になりながらも、現実の日本社会はそうはいかないだろうと考えていました。というよりも僕自身が、その可能性をどこかで信じられていないのです。
僕はやはり、どちらかといえば源氏になりたい―そう考えています。平家の開国政策に対して、源氏のそれは鎖国的であるとか、平氏政権こそが鎌倉幕府の原型だといった学説が存在するのは知っていますがあくまで比喩的に述べると、僕は源氏的なアプローチのほうを信じています。朝廷の目の届かない、鎌倉という当時のど田舎に幕府というあたらしいシステムを勝手につくりあげ、そしてそのシステムが大きくなることでいつの間にか全国を支配する―そんな可能性のほうに賭けてみたい、そう思うのです。(p.165-167)

当時の世界をまわしていた仕組みである朝廷の目の届かないところで新しいシステムを作り、それを実際に動かし、それが有効であることを見せる、そんな世界の変え方もいいのだと思うのです。
教育でも同じことができるだろうか、と考えます。文部行政、学校現場、その中に入って変えていく人ももちろんいてもいいと思うけれども、民間でうまくいく仕組みを作って、その仕組みを学校にうまいこと横展開する方がずっと早いと思う。やってみて、うまくいっている様を見せて、それに予算をつけてもらって横展開する、そういうやり方って、源氏的かなあ、とか考えたりして。

単純に考えて、この国の古い<昼の世界>とあたらしい<夜の世界>のパワーバランスは圧倒的に前者に偏っています。数の力も、資金力も、権力もすべてにおいて<昼の世界>に<夜の世界>は劣っています。両者が正面からぶつかって、勝てる見込みはまずありません。だから僕は、こう考えます。僕たち<夜の世界>の住人たちが、<昼の世界>に勝っているものは目に見えない力、つまり「想像力」しかありません。<昼の世界>の人たちが思いつかないようなアイデアやビジョンを見せることで、彼らを魅惑して、ワクワクさせて、僕たちの味方になってもらう、僕らを「推して」もらうしかない―僕はそう考えています。
そして人をワクワクさせるのは僕たち文化の、想像力の担い手たちの仕事なのだと思います。(p.170-171)

そう、あとはワクワクさせられるかどうか、ですよね。文句を言わずに動いてみる。ダメなものはダメ、と一回距離をとって、自分たちで世界を作ってみる、それが大事なのかな、と。


他にも、おもしろい部分がたくさんあったので、メモ。
p.14-16「
たとえば、僕は以前何度かNHKの『日曜討論』という番組に出たことがあります。これはその名の通り、毎週日曜日の朝にもう何十年も放送され続けている日本を代表する政治討論番組です。この番組で論客たちが座っているテーブルの中央には、画面からは見えませんが白いランプのようなものが設置されています。このランプは誰かが発言をはじめると点灯し、50秒を過ぎると点滅をします。そしてこの点滅がはじまると司会者は話をまとめるように論客にサインを出します。
これはどういうことかというと、50秒以上ひとりの人間が話していると視聴者は「飽きて」しまうとNHKは判断しているからです。そのため、この「50秒」のルールが設けられているそうです。テレビというマスメディアの性質上、最大公約数的にある程度簡易な内容を放送せざるを得ないという側面があることは間違いない。しかしわずか「50秒」の発言制限で論じることのできる内容はほとんどありません。これで「キャッチフレーズ政治」に陥らないわけがない。仮にも休日の朝から政治番組を見るようなインテリ層を対象にした番組の視聴者を、「50秒以上の発言に耐えられない」と公共放送が判断している……。この現実に、僕は背筋が寒くなったことを覚えています。端的に述べて、現代の複雑化し高度化した政治を、マスメディアのような最大公約数を対象とした装置による世論形成で支えるのは無理だ、そう痛感した一瞬でした。
では、どうするか―もちろん、答えは明白です。マスメディア「ではない」装置によって「個」と「公」、「一」と「多」を結ぶ以外にありません。ソーシャルメディアこそが社会を、政治を変えると僕が考えているのにはこうした背景があります。」

p.62-63
音楽ソフトや漫画雑誌はなぜ売れなくなったか?
=ここで起こっている変化は本質的なもの。インターネットと携帯電話の普及による2つの変化が起きている
1.コンテンツをただ「受け取る」だけの快楽(映画を観る、本を読む、音楽を聴く)が中心だったポップカルチャーに、消費者の側が「打ち返す」「参加する快楽を大きく付与したこと。二次創作、テレビ番組の実況など。
2.情報そのものにつく「値段」がゼロ円に近づいていること。原則コピー可能なコンテンツそのものに人はお金を払う勝ちを感じない。勝ちを感じるとすればそれはその人(発信者、作家など)を「応援したい」という気持ちの表現に払う。コンテンツの価格が下る一方、「体験(コミュニケーション)」は値上がりしている。CDの売り上げは落ちたが、フェスは盛況になっている状況。

p.165-167「
<昼の世界>からは見向きもされない<夜の世界>で培われた思想と技術―ここにこの国を変えていく可能性が詰まっている。僕たちはそう確信しています。僕たちがやるべきことは、この<夜の世界>で培われた思想や知恵を用いて<昼の世界>を変えていくこと――それだけです。
しかし僕はその一方で、<昼の世界>に<夜の世界>の知恵を持ち込むことで内部変革していく、という筋書きを心のどこかで信じられていないところがあります。
2012年に放映されたNHK大河ドラマ平清盛』は、平安末期の平氏政権を朝廷という既存のシステムの内部改革者として描きました。とうに耐用年数の限界を迎えているにもかかわらず、既得権益の保守と前例踏襲の事なかれ主義が横行することで更新を拒むシステムに、理想主義的な内部改革者が挑む―。主人公・平清盛が瀬戸内海の海賊や平民出身の新興武士たちの力を借りてあたらしい世の中を切り開く姿は、まるで今日における日本において、<昼の世界>の理解者たちが<夜の世界>の住人たちである僕たちと手を取り合って世の中を変えていく姿のように見えました。
しかし僕はこのドラマに夢中になりながらも、現実の日本社会はそうはいかないだろうと考えていました。というよりも僕自身が、その可能性をどこかで信じられていないのです。
僕はやはり、どちらかといえば源氏になりたい―そう考えています。平家の開国政策に対して、源氏のそれは鎖国的であるとか、平氏政権こそが鎌倉幕府の原型だといった学説が存在するのは知っていますがあくまで比喩的に述べると、僕は源氏的なアプローチのほうを信じています。朝廷の目の届かない、鎌倉という当時のど田舎に幕府というあたらしいシステムを勝手につくりあげ、そしてそのシステムが大きくなることでいつの間にか全国を支配する―そんな可能性のほうに賭けてみたい、そう思うのです。」

p.170-171「
単純に考えて、この国の古い<昼の世界>とあたらしい<夜の世界>のパワーバランスは圧倒的に前者に偏っています。数の力も、資金力も、権力もすべてにおいて<昼の世界>に<夜の世界>は劣っています。両者が正面からぶつかって、勝てる見込みはまずありません。だから僕は、こう考えます。僕たち<夜の世界>の住人たちが、<昼の世界>に勝っているものは目に見えない力、つまり「想像力」しかありません。<昼の世界>の人たちが思いつかないようなアイデアやビジョンを見せることで、彼らを魅惑して、ワクワクさせて、僕たちの味方になってもらう、僕らを「推して」もらうしかない―僕はそう考えています。
そして人をワクワクさせるのは僕たち文化の、想像力の担い手たちの仕事なのだと思います。」