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石破茂・宇野常寛『こんな日本をつくりたい』

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こんな日本をつくりたい

こんな日本をつくりたい


宇野常寛さんの言動は、最近とても気になっていて、でもどちらかと言うと政治とは無関係に感じていたので、石破さんと対談!?と思って手にとった。とても真摯に語り合っているのがよいですね。
「実現不可能なベストよりもまずは実現可能なベターを目指すことが理想の実現のためには大切だ」というのが、中で出てくるのだけど、本当にそうだなあ、と思います。戦後の制度をいつまでも引きずっていないで、新しい枠組みを考えて、100点満点を取れなくても、今の点数を少しでも上回るように変えていこうよ。
がぜん、石破さんに興味が出てきました。いろいろと言いたいことはあるし、信用できない部分もいっぱいあるけれど、ベターな選択肢として、新しい自民党になってほいいね。
以下、ここはよかったな、ってところをメモ。

p.3「
僕の考えではこの「政治漂流」、すなわちポスト・コイズミ時代の政情不安定は、自民/民主という二大政党体制が機能していないため、議会制民主主義自体が麻痺しつつあることの証左である。誰もが気づいていることだが、今や自民/民主の両党はともに右から左まで、新自由主義から社会民主主義まで、親米から反米までほぼすべての論者が党内で一通りそろってしまう総合デパート状態だ。つまり、呉越同舟が過ぎて政策レベルではまとまりようがない上、口あたりのいいことを述べて有権者のボリューム層に訴えようとするのでどちらも似たような政策になってしまう。どちらのマニフェストも幕の内弁当のようなもので、せいぜい副菜がコロッケか、カキフライかの違いしかない。その結果、党内抗争が絶えないその一方で、政権は常に政策論争ではなくスキャンダルの追求と人格批判にさらされ続けることになる。これで「政治漂流」にならないほうが不思議だ。この状態はもはや大きな政界再編でしか打開できないし、そのためには選挙制度や政党文化自体の見直しも視野に入れた議論が必要なはずなのだ」

なのに、「指摘はもっともだがそう簡単にはいかないのだ」的な事実上何も言っていない答弁によってごまかさる。そして、「リーダーの資質」を問う人格論にをしていても意味などない。

p.25「
石破 小沢さんが「普通の国」と言った時に非常に違和感があったのは、普通の国ってどこにあるの?ということなんです。
アメリカは普通の国ではない、極めて特異な、ユニークな国です。中国が普通の国ですか?私にはそうは思えない。イギリスだってフランスだって普通の国ではありません。普通の国なんてどこにもない。それなのに、「普通の国になる」というのは一体なんなんだ。」

p.62「
宇野 国民主権という問題を今、もう一度考えるのならどのようなかたちで国民に自覚を促すのか、「自分が為政者だったらということを少しでも考えて」投票行動をするような文化を育てていくのかをゼロから考えていくべきなのだと思います。憲法改正や政治改革の問題を考える時には、常にこの視点に立ち返っていきたいですね。」

p.80「
石破 これまでの政治家の決定的な説明不足にあると思いますよ。不安が蔓延しているのは分かっているのに、若い人にこそ理解してもらおうという努力がまるでなされなかった。」

p.99
2011年10月~12月 非正規雇用が過去最高35.7%、正社員は64.3%

宇野 だからたぶん、「正社員」や「公務員」が身分保障を獲得できる「狭き門」だと思われているんでしょうね。この認識が正しいかどうかはともかく、そんな印象がぼんやりと共有されている。この「不幸な状態」を解消する方法は、大きく分けて二つあると思うんです。一つは「戦後」のように「誰もが正社員になれた時代」に戻すこと。もう一つは「非正規雇用やフリーダーでも、ちゃんと生きられるような社会」をつくること、つまりこの格差の存在自体はある程度認めた上で、セーフティネットを張ることで緩和するという発想ですね。そして、これまで話してきたように、僕は後者のほうが現実的だと思うんです。国際競争力の問題から言っても、戦後的な企業文化を維持しても誰もが正社員になれた時代を維持するというのは非常に難しいでしょうし。

p.119-120「
石破 アップルを例に出すまでもなく、ビジネスモデル自体を輸出するという発想は、これから絶対に必要ですね。だとするとその逆に日本に外国の企業が来てもらうという発想も大事になってくるでしょう。たとえば「ベンツ日本工場」とか「BMW日本工場」を見たことがありますか?子どもの頃から不思議に思っていたのですが、ベンツ日本工場も、BMW日本工場も、あるいはフィリップス日本工場でもいいんですが、まったく見たことがない。日本の製造業は世界中に工場を持っているのに、なぜ外国から工場は来なかったのでしょう。労働者を連れてくるのも一つのやり方ですが、雇用をつくる場、つまり外国企業はなぜ日本に投資をしないのか、ということを考えていかないと、結局GDPが上がることにはなりません。
日本を国際化するというのは、企業の日本への投資を増やすという意味もあります。日本のGNPはある程度伸びているのにGDPが伸びないのは、海外から投資がないからです。そこには、必ず理由があるはずです。」

p.121-122「
石破 日本国内の外資系企業は非製造業の割合が高く、また外資系の日本国内の設備投資額も、2007年は1.5兆円あったのが、2009年には1/3の0.5兆円に激減しています。外資系企業のアジア本社の割合も、シンガポール24%、中国23%、香港19%、台湾7%、韓国7%などに比べて日本は6%いかありません。
このアジア地域においては、各国が投資誘致合戦を繰り広げています。すでに法人税減税(日本30%に対してシンガポール17%)、背t日とし減税などは、ゼロつまり「税金タダですから来てください」という国も珍しくなく、競争は激化する一方です。人材育成という点でも、シンガポールなどでは小学校から本格的な英語教育をし、あるいは金融やマーケティング論を授業に取り入れているのに対して、我が国ではこれらのライバル国と同じ土俵にすら立っていません。」

p.147-148「
宇野 今、反原発運動の人たちが盛んに、原子力発電所の落とすお金に依存した地方の産業構造を批判しています。その批判はまったく正しいとおもいますが、その一方で彼らの多くが「駅前の商店街」を擁護して「ロードサイドのショッピングセンター」を批判している。けれど、単純に考えて「原子力ムラ」と「駅前の商店街」はどちらも、かつての角栄的な利益誘導政治に基づいた産業構造の産物で、両者は表裏一体のはずです。僕の考えでは、なんとなくハートフルなイメージがあるから「駅前の商店街」は素晴らしいと言い、大資本と結びついているものはとにかく批判的に捉えなきゃいけないという昔の左翼的な発想をひきずって「ロードサイドのショッピングセンター」を悪だと決めつけても、まったく問題は解決しない。地方を再生するために重要なのは、これまで話してきたように、すでに機能しなくなっている戦後的な地方経営の構造そのものをどうつくり替えるか、のはずなんです。」

p.155「
石破 原発に異常な事態が発生した際の対応は、「止める」「冷やす」「閉じ込める」の3つですが、福島第一原発は止まったものの「冷やす」と「閉じ込める」に失敗してしまいました。これに対して女川原発は同じように震災や津波にあったにもかかわらず、「止める」「冷やす」「閉じ込める」が問題なくできた。福島第一原発でも電源の喪失さえなければ事故は起こらなかった、ということをどのように評価するか。
同じように、大事なのはマネジメント、管理の能力です。技術だけではなく、誰がどのように原発を管理するか。今回は総理大臣から現場まえ、これが非常に悪かったと思われます。この懸賞を徹底して行い、絶えず改善していくことが必要です。
総理大臣は生半可な知識で現場を混乱させてはなりません。現場について言えば、アメリカでは原発の運転員の多くは、空母や潜水艦など海軍の原子力動力艦の運転に携わってきた人たちだそうです。民間船と違って軍艦は被弾などによる事故を当然に想定していますから、対応能力は相当に高いと考えるべきでしょう。日本は「むつ」の失敗以来、原子力動力船を官民ともに持っていませんから、この能力を高める人材を確保するためには、相当の努力が必要です。」

p.160-161「
石破 私は最近、時速370キロという世界最速のスーパー・エコカー「Eliica」を開発された慶應義塾大学の清水浩先生にお話を伺い、エリーカにも実際に乗ってきました。これは電気自動車ですから、当然排気ガスを出さないし、エンジン騒音もない、必要なエネルギーはガソリン車の四分の一という、いわゆるエコカーです。でありながら、加速は、あのポルシェ911ターボを超えるスポーツカーでもあるのです。先生曰く、今の電気自動車が売れないのは、「つまらない」「面白くない」「わくわくする楽しさがない」からだそうです。「車好きが好きになれる電気自動車をつくらないと、電気自動車の未来はこれ以上開けない」とおっしゃっていました。先生は決して自動車の専門家ではないのですが、車が大好きで、みんながわくわくする車でなければダメだと考えて、そういう車をつくったそうです。」

p.173-174「
宇野 たとえば僕は「憲法九条を世界遺産にしよう!」という文化左翼の言葉と、「憲法九条を改正して<普通の国>になろう」というかつての保守派の言説は、コインの裏と表のようなもので、実はまったく同じ論理構造でできていると重います。つまりどちらも偽善、もしくは偽悪を受け入れることで近代国家として成熟するべきだと説いている。主張自体は真逆だけれど、どちらもアイロニカルな物語を文化空間で共有することで個人と国家を結びつけようという発想に基づいている。けれど、これまで確認してきたように、こうした発想は冷戦下の国際秩序があってのものです。冷戦構造がなくなれば、当然、こうした個人と国家を結びつける物語回路が機能するわけがない。けれど、悲しいことに今の日本では護憲派改憲派も、そのことに気づいていない。彼らは国家が国民統合のために語る「物語」として憲法を捉えている。この発想を捨てない限り、たとえ「改憲」が実現したとしても、それが「機能する」憲法を手にすることにはつながらないと思うんです。」

p.182-184「
宇野 じゃあ、どうすればその「検証」する視点をきちんと教えることができるのか。僕なりに何度か考えたことがあるんですけれど、そのたびに引っかかるのが「歴史に<if>はない」という言葉なんですよね。でも、僕はそうじゃないんじゃないかと思う。実は、歴史のifを考えることが歴史を学ぶ上では一番大切なことなんじゃないかと思うんです。
石破 「もしこうだったら」という話は大事です。猪瀬直樹さんが書かれた『昭和16年夏の敗戦』(中公文庫)という本がありますが、それを呼んで目から鱗が落ちました。「合理的にデータに基づいて考えればアメリカとの戦争には勝てない」と、昭和16年の夏、つまり日米開戦の前に結論が出ていたわけです。ところがその結論に対して「机上の空論」とか、「貴様は日本人の魂をどこに置いた!」とか、「非国民」「戦は時の運」とか、理屈にもならない屁理屈で戦争に突入し、国民をだましてきた。陸軍も海軍も軍備を整えてきて、今さら、「戦争なんてできません」とは言えなかった。
突き詰めて考えることなしに、最後は「まあ仕方ないか」「やむを得まい」ということで、あの戦争に突入していった。だいたい日本人が「やむを得まい」と言ってする決断に、ろくなものはありません。」

新しい歴史教科書をつくる会」が、「物語を語れ。物語がないから公共心がなくなっている。」と語っていたが…

「宇野 僕はそこにすごく違和感があった。やはり歴史は物語ではないのではないか、ただの事実の積み重ねなのではないか。それを一貫した価値観に基づいた物語として読んでしまうと、歴史から学ぶことからむしろ遠ざかってしまう。やはり歴史は物語ではないのだから、ifの可能性をどんどん考えるべきだし、そこにしか歴史を学ぶ意味はないはずなのに、どうしてお自分探し的な動機から都合の良い物語を語ろうとする。実はこれって、左翼も一緒ですよね。
石破 それはやはり、教育の過程でディベートをしてないからではないでしょうか。「自分が為政者であったら、どうするか」という考え方を教えないわけですよね。第一部でも言いましたが、国民主権というのはそういうことなのではないか。国民が主権者というのは、結局自らが為政者だったらどうするか、ということを考えて一票を投じることです。それが主権者だと思います。
宇野 すでに完成された物語を受け身で学ぶのではなくて、自分が当事者としてifの可能性をゲーム的に検証することが歴史を学ぶことなんだと思います。」

p.186-187「
宇野 日本の戦後教育って、明らかに日本的なサラリーマンや専業主婦を育成するための、ある種のプログラムだと思うんです。だから、小中高ずっと学級制度で、同じ人達と付き合って空気を読む訓練ばかりさせられる。ところが大学だとちょっと事情が異なります。高校までのような学級制度があるとは限らないので、特に都市部の大学では自分で自分が所属するコミュニティを獲得しないと人間関係が築けないわけですね。(略)たいていの場合、二つ以上のコミュニティに所属することになるでしょうしね。だから小中高の教育に過剰反応した人は「与えられた箱」の中の空気を読むことはできても、「自分に合った箱」を探すノウハウはあまり身についていない、というわけです。
「これまで」はそれでも良かったと思うんです。だって終身雇用を前提とした日本的サラリーマンと専業主婦の育成を前提にしていたんですから。しかし、これからの教育はそれじゃいけない。」

p.209-210「
宇野 本名を名乗らないからこそ、自由に自分の意見を言えるんだと思うんです。それを日本人の未成熟だと批判するのは簡単だと思いますよ。でも現実的に考えていくと、まずはそういう日本人の性根を受け入れて回っていくシステムをつくるしかないと思うんですよね。
もちろん、それはベストなかたちではないかもしれない。しかし、実現不可能なベストよりもまずは実現可能なベターを目指すことが理想の実現のためには大切だと石破さんもおっしゃったじゃないですか。たとえ匿名でも、何もコメントがつかないより進歩していると思うんです。今までは居酒屋で愚痴を言っているだけだった人間が、直接国会議員のブログにコメントをつけることができる。無責任な主体から発せられるその意見一個一個はすごく愚かで卑怯なものが多いかもしれないけれども、その愚かさと卑怯さがインターネットでははっきりと目に見えることになる。これはこれで進歩のはずで、そこから始めるしかないと思うんですよ。」