松岡正剛『誰も知らない世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義』

誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義

誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義


国民国家(ネーション・ステート)の成り立ちを、世界史的に横に串刺しして語る。日本の明治維新とほぼ同じころにイタリアで国民国家が成立、とかそんなこと考えてもみなかった比較がされていておもしろい。

そもそも近代社会というのは「代理の社会」だというふうに思っています。(p.392)

というのも、社会学の講義で聞いた気がするぞ。「代理の社会」であり、家事やら教育やらもすべてアウトソーシングした社会。政治は「お願いしまーす」と全部を丸投げしてしまうのではなく、選んだからには応援する=支える、というのが必要だよな。覚悟を決めて支持する、というのが難しい制度だよな。選挙権を持つ者としての覚悟。
ここから松岡さんは、「代理の社会」を「編集の社会」にしていくべきだ、と言うのですが、それはちょっとわからん(笑)
以下、メモ。

p.392

私は、そもそも近代社会というのは「代理の社会」だというふうに思っています。
自分で政治もしないし、料理もしないし、洗濯もしない。政治は代議士にしてもらい、洗濯はクリーニング屋に頼み、旅行は旅行代理店に組んでもらう。法律のことは弁護士にまかせ、食事もレストランのシェフのものを食べ、教育は先生がたに面倒をみてもらう。企業も財政面を銀行に見てもらい、その宣伝は広告代理店に代理させていく。
これが近代社会の実態です。なにもかもが他人のつくる機関にまかせていく。そして、大衆はそれに文句をつければいいということになっていく。こういう「代理の社会」をつくったことが、ネーション・ステートのもうひとつの特色だったわけです。
すべての代理がよくないということではありません。「まちがい」とも言いません。政治や法律や教育や医療は、代議士や弁護士や教師や医師にまかせてもいいでしょう。けれども、そこには限界もあるし、失敗もあるし、過剰や不足もあるのだから、目を光らせるだけではなく、ときには自分で引き取る覚悟ももっていたほうがいい。
(略)
こんな「代理の社会」がこのまま、21世紀の政治や社会や経済の理想モデルになるかといえば、とうていムリでしょう。私はそれをせめて「編集の社会」にしていくべきだと思っています。「代理を編集で取り戻せ」ということですね。


p.420-421
ダニエル・ベル『資本主義の文化的矛盾』での指摘

世界はこのまま進むと「政治」「経済・技術」「文化」の3つがバラバラになっていくしかないと予想した。
なぜなら政治は「公正」を表明していくしかなく、経済と技術は「効率」を追求するしかなく、文化は「自己実現」ないしは「自己満足」を描くしかないからだというんです。モノサシがまったく別々になってしまったからですね。「公正」と「効率」はなかなか一緒になりえない。それならこの3つは、ぬきさしならないほど矛盾しあっていくしかありません。つまり、3つの自由は別々になっていると言ったわけです。


ベルが指摘する現在の社会が罹っている病気:
1.解決不可能の問題だけを問題にしている病気
2.議会政治が行き詰るから議会政治をするという病気
3.公共暴力を取り締まれば指摘暴力がふえていくという病気
4.地域を平等化すると地域格差が大きくなる病気
5.人種間と部族間の対立がおこっていく病気
6.知識階級が知識から疎外されていくという病気
7.いったんうけた戦争の屈辱が忘れられなくなる病気


p.434-435

日本の稲作でとくに注目するべきことは、いったん蒔いた種を「苗」にして、それをふたたび田植えで移し替えるという方法をとっていることでしょう。
私は以前から、日本における「依代(よりしろ)」や「憑坐(よりまし)」や「物実(ものざね)」という考えかたにたいへん興味をもってきました。これらは、そこに何かがやってきたり、着いたり、宿ったり、育ったりするとても小さな「座」や「棒」や「柵」のようなものです。いったい、どうしてこのようなものが多いのかと思っていたのですが、そのルーツのひとつは「苗」のための「苗代」にあったんですね。
日本の稲作は、つまり、ダイレクトに育てないわけです。そのまま大きくしていかない。いったん苗代という仮の場所に種をまいて、ちょっと育て、その苗を田んぼに移し替えて、それから本格的に育てていくんです。いわば間接話法です。部分の重視です。
苗代は、とても大事な「日本という方法」です。それがあることによって、成長が二段階に組み立てられ、やがて育つべきものたちの「幼少性」をいつくしめます。