梅森直之 編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』

ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)


ベネディクト・アンダーソンが2005年4月に早稲田大学でやった講演記録と、それについての解説。ベネディクト・アンダーソンと言えば、『想像の共同体』。大学の頃、読んだなぁ。国民なんてものは存在しなくて、それはみんなが想像していることなんだ、という主張は、それまで国民って存在を考えたことがなかったので、「ほえー、そうかー」と思ったものでした。
以下、メモ。

p.113-115

「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」。これはアンダーソンの主著とされる『想像の共同体』のなかの有名な一節だ(『増補 想像の共同体』p.24)。アンダーソンのナショナリズム論が有した衝撃力は、この一分に込められていると言ってよい。
どうもピンとこない人は、この文章の「国民」を「日本人」と読みかえてみよう。「日本人」も「国民」の一種なのだから、この読みかえはけっして不当ではないはずだ。「日本人とはイメージとして心に描かれた想像の共同体である」。


日本人とは何だろうか?

  1. 日本人とは、礼儀正しく和を重んじる(=主体性がなく自己主張ができない)人々である(文化的規定)
  2. 日本人とは、日本史の教科書に書かれた人々のことである(歴史的規定)
  3. 日本人とは、日本国籍を持つ人々のことである(法律的規定)

これらはいずれも「日本人」の実在を前提にしたうえで、その特徴をつかまえようとしている、本質主義(essentialism)


p.118

日本のパスポートを持つ人々のなかには、帰化した外国出身の人々も含まれていることを、僕らは経験を通じて知っている。そして僕らはかれらのことを、通常さほど意識することなく、日本国籍を取得した外国人と読んでい居る。しかし、法律的規定からすれば、これはおかしな表現だ。なぜなら日本国籍を取得した時点で、カレやカノジョは、すでに「外国人」でなくなっているのだから。でも僕らの「国民」をめぐる「常識」は、そんな奇妙さに満ちている。(略)法律上れっきとした日本人である元外国人たちを、素直に「日本人」と認めない頑固さが、僕たちの「常識」にはつきまとっている。


p.185

「貿易よりも言語を!」
これはアンダーソンが、講義の最後に僕たちに残してくれたメッセージだ。
カネとモノのつながりを中心とする現在のグローバリズムを、人間的なつながりに変えていくこと。そのためには、僕たちひとりひとりが、「他者」と人間的なつながりを結び、それを深めてゆくしかない。
こうした目的のために、経済は万能ではないとアンダーソンは言う。むしろ言語を学び(ただし英語以外!)、異なる文化に対する感受性を養うことが大事だと。シンプルだけど、具体的でとても力強いメッセージだ。
「他者」の言葉を学ぶことは、「他者」を理解することの、重要な第一歩である。「他者」と出会うために、留学したり、調査に出かけていく必要は必ずしもない。目をこらしてみれば、僕たちの日常生活は、「他者」との出会いに満ちているはずだ。それがグローバリゼーションという時代の危険性でもあり、また可能性でもある。アンダーソンが、リサールを通じて開いて見せたグローバルなリゾーム状の歴史、それを僕たちは、いま、この場から、はじめることができる。