田中智志『教育学がわかる事典』

教育学がわかる事典

教育学がわかる事典


教育についての総花的な勉強がないかな、と思って読んでみた。おもしろい内容もいくつかありましたので、以下メモ。

p.54
遊びの分類(カイヨワ)
1)アゴーン(競争)
サッカー、野球、チェス、囲碁
2)アレア(偶然)
競馬、競艇、賭博、宝くじ
3)ミミクリ(模擬)
ままごと、人形遊び、おっかけ
4)イリンクス(眩暈)
ジェットコースター、バンジージャンプ、シンナー遊び


p.57

「かくれんぼ」であれ、「鬼ごっこ」であれ、子どもの遊びは遊び仲間どうしの対立、知らない大人の世界、社会の現実(権力・暴力・貧困など)を身をもって体験する契機だった



必要以上に商品があふれ、生身の経験よりも記号の経験がリアルになり、教育が学歴取得ゲームになりはじめた

ことで、遊びの多くはゲーム化された


1990年代後半からの不況のなか、生活のゲーム化は押しとどめられていったが、遊びのゲーム化はとどまるところを知らない。それはかなり危うい状況である。というのも、このような状況のもとでは、子どもは実践知を身につけにくくなるからである。人は、他者の他者性(人のかけがえのなさ)を承認し、経験の全体性(五感すべての連関する経験)を了解しなければ、実践知(臨機応変の知)を身に着けることができない。



ようするに、ゲームばかりしていても「バカ」にはならないだろうが、実践知をもたない人間になるかもしれない。それは、たぶん「バカ」になるよりもつらいことだろう。


p.72
文化資本(capital cultural):
ブルデューの用いた概念。
・支配階級の持っている文化も、社会的・経済的に高い地位を手に入れるうえでりっぱに元手として機能する。
ハビトゥス(habitus)と一体化している。人の意識的行動とそれを規制する社会構造とを媒介するものであり、知らず知らずのうちに身につけたやり方・考え方、つまり身体化された構造(人の知覚・意識・行動のパターン)をさす。これは、人びとの好み・趣味に一貫した傾向性であり、ライフスタイルの違いとして発現する。

社交資本(capital social):
ブルデューの用いた概念。
・運用することによって収益を増大させたり地位を高めたりするソシアビリテ(知り合いであること)のネットワーク(人脈・コネ)で、学校・大学の同窓会・学閥の機能を説明する際に用いられる。


p.76
自分の価値を高める方法(戦略)
1)学校的な文化資本=学歴(学校暦)・業績(能力)・資格(免許)
2)ジェンダー的な文化資本=美容・化粧・商品(ブランド)


学校的な文化資本を所有できる人は限られている。だれもがいい成績を取り、一流大学に合格し、スポーツ推薦を受けられるわけではない。むしろ、教育を受ければ受けるほど、子ども・若者は、クーリングアウトされていく。つまり<自分はこの程度の人間なんだ>ということを思い知らされる。
クーリングアウトされた子ども・若者は、学校的な文化資本以外のものを求めるようになる。


p.100

特定の意図的伝達行為としての教育は、不確実性に満ちている(うまくいくかどうかわからない)。教育を受ける心構えができていない子どもを教育しようと試み、かりにていねいな態度でその子どもが教育を拒否することを禁じても、子どもはいやいややるだけで、成果はほとんどあがらない。教師が子どもの現実・関心にそくし臨機応変に判断し、カリキュラムを自在に変えていかない限り、子どもはついてこないのである。
特定の意図的伝達行為としての教育が不確実性に満ちていることを考えるなら、重心を教育よりも社会化においたほうがうまくいくかもしれない。「○○法」と命名され教育方法をあれこれ考案するよりも、社会化の環境を整備するほうがいいだろう。それは、イリイチの「学習ネットワーク」のような、子どもが「すごい」「おもしろい」と思ったことを自由に深めていくための情報・人材のネットワークを用意することである。


p.108
2つのカリキュラム
1)顕在的カリキュラム
・表向きのカリキュラム
・教科活動、教科外活動など
2)潜在的カリキュラム
・かくれたカリキュラム
・黙示的な規範・価値・態度など
・暗黙のうちに子どもに了解されていて、暗黙のうちに子どもに了解されていること。たとえば、教師を尊敬する態度、座ったまま沈黙を守る問い態度など


p.110
ピグマリオン効果
教師の反応、働きかけが子どもにやる気を起こさせたり、なくさせたりすること。


子どもは教師からの期待を受け取ることで、自己認識を強化するため、教師による成功の認定(失敗の認定)、成功の期待(失敗の期待)は、さらなる成功(失敗)を生むのである。


p.118
教師の指導力は、子どもたちがおかれた情況への応答可能性であり、「臨床知(実践知)」である。

これは、医師の医学的な判断に近い

医師の一瞥のまなざしは、しばしばもっとも広範な博識にまさり、もっとも徹底的な教育にまさる。それが五感を秩序立てて正しく用いたことの結果でなくてなんだろうか。この五感の修練から、あの臨機応変の力、すばやい述定、とっさの判断が生まれる。それはあまりにも迅速であり、すべての行為がいちどきにおこなわれるように見えるため、その総体は『タクト』という名前で呼ばれている(フーコー


p.127

理論的に考えても、総合的な学習が基礎学力を低下させることはありえない。むしろ、総合的な学習は基礎学力を向上させる。総合的な学習において学ばれるものは、いわゆる教科の知によって回収できないものであり、教科的な知の前提になっている知である。


p.226
レッジォ・エミリア・アプローチ:
・イタリア北部にあるレッジォ・エミリア市の市立幼児学校で行われている形態
・考案したのは、教育者のマラグッチ。
・カリキュラムは存在しない。あるのは「エマージェント・カリキュラム」=「臨機応変に生成するカリキュラム」のみ。
・保育者たちは大まかな目標を設定し、子どもの活動を推測するが、子どもの活動を一方的に規制することはない。
・保育者は、子どもの指導者ではなくパートナー。
・保育の基本理念は、「なすことによって学ぶこと(Learning by doing・Dewey, John)
・子どもたちは数人からなるグループを作り、教師と一緒にグループごとに何らかの「プロジェクト」を立ち上げる。

プロジェクトの特徴:
1)子どもの興味・関心を重視すること
→子どもの疑い、驚きを契機としながら緩やかにプロジェクトは連続している。
→アトリエでプロジェクトは行われ、そこには子どもたちが自由に使える素材が常備されている
2)協働性
・子どもたちは、プロジェクトを進めながら、他の子ども、教師、親と話し合い、自分の発想・経験を提示しまた反省する。
・子ども、教師、親との互恵的なコミュニケーションと一体となって進行する。
3)社会的構築主義
・自分の一回性の経験を広い文脈のなかに位置づける。
・子どもたちは、自分の書いたものを読み直し、自分の考えたことを反省し、自分のおこなったことに立ち戻り、発想・経験を表現する方法を生み出していく。
4)詳述
・教師は、子どもの興味・関心やその変化をとらえるために、子どもとのコミュニケーションを録音し内容を確認する。
・このモニタリングにより、実際に会話が進んでいるときに気づかなかった子どもの興味・関心が明らかになっていく。