重松清『教育とはなんだ』

教育とはなんだ

教育とはなんだ


重松清さんが、教育に携わる人たちにインタビューを受けに行く、という本。いろいろな方向から教育について考えることができる。言われてみればそうなんだけど、意外と気づかないよなー、ということが多かった。教育を変えようと何かをしている人たちの姿を見られるのがいい。刺激を受けたよ(えらそーな言い方・笑)。

以下、メモ。

p.13■刈谷剛彦

「数字」を使わずに語ること、一人一人の子どもについて語ることが、いままで正しいとされてきた「教育」の語り方だったわけです。でも、いま公立の小中学校では65万人の教師がいて、年間10兆円以上の税金を遣って義務教育が運営されています。それだけの税金を遣ったパフォーマンスについてわれわれがなんらかの成果を計ろうとすれば、「数字」が欲しいですよね。「数字」だけで計れなんて無茶なことは言いませんが、少なくとも「数字」が出てきてもいいはずなんですよね。他の政策だったら、すぐに出てくると思うんですよ。ところが、「教育」にかんしては、出てくる話は「教室の中で子どもたちの目がいきいきしているか」になっちゃう。


p.22■重松清

「教育」は片方に教室の現場という虫瞰があり、もう一方に政策という鳥瞰がある。虫のまなざしはしばしば感動の物語(「熱血教師が学校を変えた!」の類です)として消費されてしまい、鳥のまなざしは「戦後」や「民主主義」や「国家」といった大きなイデオロギーに縛られてしまう。「社会」や「数字」は、そんな2つの極端なまなざしをつなぎ、冷静な議論をうながしてくれるのではないか?


p.47■新井紀子

教えることの基本は「自分のことは忘れてくれていい」ということだと思うんです。自分自身ではなく、自分が伝えた数学が生徒の中に残っていくかどうか。はっきり目に見えるものではなくても、その授業で得たものがちゃんとあって、「数学の授業を受けてよかった」と生徒に言ってもらえればいいのになあ、と思うんですよ。「あの先生の授業は面白かったね、内容は忘れたけど」と言われたら、それは教育の失敗だと思う。
実質が残ってこその教育じゃないですか。そこで学んだ論理や証明が血肉になって、経済に使ったり、離婚訴訟に使ったりして、それで一向に構わないはずなんです。臨機応変に使える一般性と普遍性があってこその数学だろうと思いますね。そこをすっ飛ばして、美しさや永遠性をふりかざす態度は、あまりにナイーブだろうと私は思います。


p.51■新井紀子

「わからない」は悪いことじゃない。自分の世界を広げてくれるきっかけになる経験だと思います。
「わかる」ことは、「すぐわかる」から来たときは浅い。「わからない」から「腹が立つ」、だから「考える」、そして「わかった!」となったほうが深い。さらに、「わかった!」から「自慢する」、でも「みんながわかってくれない」、「悔しい」、だから伝え方を「工夫する」、そうしたら「みんなにもわかってもらえた!」…というふうに何層にも重なって「わかる」に至るときに、深く「わかる」物だと思います。そういう意味でも、特に証明問題をたくさん経験するのは、子どもを育てるうえでかけがえのないことだと思っています。


p.73■清水良典氏

現代の若い世代は「活字離れ」なんかじゃなくて、むしろ「活字まみれ」なんだ、といつも答える。携帯メールやネットの掲示板への書き込みなど、こんなに書くことが日常に普及した世代は歴史上かつてなかった。


p.80■滝川洋二氏

「せいかつ科」というのはまるで道徳なんですよ。小学校低学年の理科は、遊びを通じて自然の規則性や法則性を学んでいたんですが、それを削ってしまったんです。「せいかつ科」の施行時の授業の実践例を見ていると、「ヒマワリさんの家をつくってあげよう」とかね。ヒマワリさんに手紙を書いたり、アリさんが並んでいるのを観察したりして、自然を愛する心を育てましょう…これは道徳の授業なんです。(略)いまはそんな極端なのは減りましたが。


p.98■鷲田清一

「自分ってなんだろう」「家族ってなんだろう」「性ってなんだろう」「国と国家ってどう違うんだろう」…誰もよくわからない。でも、僕は、「わからないけれど問わずにいられない、そのときどう問うたらいいか」が、教育の基本になくてはいけないと思うんです。わからないことを大切にしなさすぎると思うんですよ、いまの教育は。
人生で一番大切なことって、わからないことに、わからないままどう対処するか、っていうことじゃないですか?たとえば、人間はいつ死ぬかわからない、わからないまま、どう生きていけばいいのか…。わからないものを、無理やり自分の小さな持ち駒の中に入れて解釈してわかった気になるのではなく、わからないままきちっと対処するのが、一番重要な問題だと思うんです。


p.229■坂上達夫氏(「ようこそ先輩」チーフ・プロデューサー)

もちろん、われわれもまったく準備をせずに教室に入るわけではありません。事前に学校に行って子どもたちにアンケートをとったり写真を撮ったりして、収録で教室に入った段階では、カメラマンも含めて全員、子どもたちの顔と名前は一致しています。アンケートの回答用紙も読んで、「○○くんは、××が好き」ということも、だいたい覚えてから収録に臨みます。


p.234■坂上達夫氏(「ようこそ先輩」チーフ・プロデューサー)

じつは、『ようこそ先輩』でも『未来への教室』でも、われわれがターゲットとしている視聴者は、子どもたちではなく、親なんですよ。「教育番組」ではないんです。一流のおとながどう生きているかを、われわれふつうのおとなが見ることに意味がある。それを見せる手だてとして、学校の教室を借りちゃったわけです。


p.292■玄田有史

「夢を持ちましょう」なんて言うより、夢なんかなくてもちゃんと生きていけるということを教えた方がいいんじゃないか、と僕は思うんですよ。でも、若いひとたちのほうが説得されちゃって、「夢は持たなきゃダメです」って言うんです。テレビでもみんな「夢を持て」と言う。ただ、あれは成功してるひとだから「夢を持て」っていえるんですよ。99.9%のひとは夢がもてないから苦しんでいるんだし、そんな中でも生きていけるということをちゃんと教えてやらないと。


p.297■玄田有史

吉本興業の横澤あきらさんは、新人研修で「これから壁にぶつかるだろうけど、その壁を乗り越えなさい」とは言わないんです。「壁の前でうろうろしてなさい」と言う。うろうろしていれば、そのうち壁がガラガラと崩れるときが来たり、突然ヘリコプターからロープが垂らされたりする。だから、壁の前でうろうろしていることが大事です、と。この感覚は入社したばかりのひとにはわかりづらいかもしれないけど、こういう言葉で語れる上司が増えていかなければダメだと思います。


p.298■重松清

お金のリアリティーを魅力的に語る言葉を持たなければならない、という玄田さんの提言は刺激的だった。
子どもたちのゲーム感覚の万引きが、最近大きな問題になっている。その根っこを探っていくと、ものを商うことへの軽視、さらに言うならお金について学校が(もちろん家庭や社会でも)きちんと教えていない、というところにも至るのではないか。
(略)
ああ、どこかの学校に「金は天下の回りもの」と彫った石碑はないものか。この言葉、ぼくは最も教育的で倫理的だと思うのだが。