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諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』

オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)

オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)


現場目線での著書が多い諏訪哲二さんから、「オレ様化する子どもたち」という問題提起。子どもが変わった、という話もなるほど、と思う。それよりも、崩壊している教室で、教師がどんなふうに振る舞うべきか、ということも書いてあって、勉強になった。
あとは、諏訪さんが考えている、「なぜ学校に行くのか」という理由付け(p.111-112)はよかったなあ。1.知識を学びに行く(=市民社会的な感覚)。2.人間として成長するため(=共同体的な感覚)。これに3つ目として、3.近代(社会)を信じるようになるため、をつけ加えたい、と。なぜなら、「自己を柔らかくして「外部」に開いていく必要がある」から。これは勉強になりました。そう、「社会を信じる子どもたち」を育てないと、崩壊するよねえ。
以下、メモ。

p.10-11「
私自身は新設の高校に勤務していたが、1980年代半ばにこういう「新しい生徒たち」に出会い、まさに茫然自失し、教師としての方向性を見失うような大挫折を経験している。彼ら「新しい生徒たち」はすでに完成した人格を有しているかのようにふるまい、40代半ばの中年教師である私に拮抗しようとして私を慌てさせた。知的にも人格的にも学んで自分を変えようとしなかった。だからと言って、とにもかくにも社会で生きぬける「強い自己」になったのではない。かえって、自分ではえらい一人前の存在だと思っている対人関係や社会的適応性の脆弱な「弱い自己」になったのである。「オレ様化」するということは、自己をほかの自己と比べて客観化することがむずかしくなり、自己(の感覚)に閉じこもり出したということであろう。」

p.55「
教師の叱り方では、私語の注意は彼らの人間性や考え方を批判したのではなく、彼らのうっかりした動きに注意をうながしたにすぎない。昔だったら生徒がキレるはずはなかったのである。ふつう生徒がキレるのは「こんなことをしてはいけません」と言われたときではなく、「こんなことをした君は○○な人間だ」などと人格的な規定(否定)をされたときである。だから、学校では昔から「こうしなさい」「こうしてはいけません」と、動き方で生徒を指導してきた。ところが、生徒たちに注意ができなくなってしまった。どうやら私語の注意も彼らには全人格を否定したかのように受け取られるらしいということがわかってきた。それくらい彼らの自我は「外」からの攻撃に弱くなったのであろう。「オレ様化」したというゆえんである。昔の生徒の自我より脆くなったのである。」

p.56「
教師は社会を代表するものでも「象徴的な父」でもなくなった。社会という大きなものが、子ども(生徒)たちにとってその程度のものになったとも言える。つまり、権威のなくなってしまった教師は、まさしく子どもたちの主観にとっての社会を象徴しているのであろう。逆算すれば、子どもたちの「個」の意識がものすごくえらくなったのである。」

p.57-58「
もうひとつの「新しい生徒」たちの大きな特徴は「比較をしなくなったこと」である。比較にはたとえば「理想的な人間像」と自分とを比較する最上級的な比較と、自分と他人(ひと)を比較する比較級的なものがある。両方ともしなくなった。クラスや班のなかで生活していても、自分がどう見られているか、自分がどの位置にいるかを気にしなくなった。日本的な「世間」の領域は消失したのである。どこで気がついたかというと、学校で問題行動を起こして事情調査をすると、その生徒たちがよく「センセエ、オレはふつうだよ」と言いはるようになったのである。」

p.92「
学校がまだ共同体的な要素を色濃く残していた頃は、教師や子ども(生徒)たちの人の見方も一元的にならずに、さまざまな人間がさまざまなありようで生活できていた。今でも良い学校というのはトップの私学であろうと、公立校の上位であろうと、その実態は共同体的になっていると私は確信する。市民社会的な孤立した「個」がでかけ、「個」として学んで帰ってくるといった、いわゆる予備校を煮詰めたような学校が良い学校であるはずがない。」

p.106-108
朝日新聞で1998年に取り上げられた「学級崩壊」の記事:
・子どもたちとこうルウしようという動きがマイナスになる。「先生と生徒」としてつながりを持とうとせず、31人の子どもの本体の一人ひとりと向き合うことはできない。
・個性を発揮するために、ギターを弾いて歌ったり、けん玉チャンピオンを決めたりもしていたようだが、これもマイナス。学校で私的なことをしてもいいんだ、という雰囲気を作ってしまっただろう。
・だんだん抑えきれなくなった時に、言葉で抑えようとすると、最初の頃と一貫性がないじゃないか、と子どもたちが反発する。
#むずかしいよなあ…

p.111-112
なぜ学校に行くのか
1.知識を学びに行く(=市民社会的な感覚)
2.人間として成長するため(=共同体的な感覚)

3.近代(社会)を信じるようになるため をつけ加えたい
   =自己を柔らかくして「外部」に開いていく必要がある