東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

人文科学の視点からは、現代社会は、もはやいかなる理念もなく、無数の共同体=島宇宙に分断さればらばらになってしまったように見える。民主主義の基盤は崩れてしまったかのように見える。しかし、ネットワーク論の視点で見れば、人口70億弱の全世界でさえ、しょせんは「友だちの友だちの友だちの友だちの友だちの友だち」で覆える規模でしかなく、まだ十分に小さい。だとすれば、現代社会においては、むしろそのような個人間の繋がりの「近さ」そしてそれが可能にする偶然の連帯こそが「民主主義への希望」になるのではないか。」(p.221-222)

本当におもしろい視点だと思う。熟議、熟議、と言いながらあまりそれが効果を上げているようには思えなかったので、こうした新しいプラットフォームの提案っていうのは刺激的で本当におもしろい。いろんなヒントがたくさんある気がする。ほぼ同時期に読んだ『希望論』と対にして読むとおもしろいんじゃないかなあ。
以下、メモ。

p.135-136「
生活すべての情報化、本書での言葉を使えば「総記録社会」化は、たしかに企業による消費者のコントロールを強化するかもしれないが、逆にいままでにないきめ細かな福祉も可能にするかもしれない。総記録社会の誕生は、市場原理主義とも社会民主主義とも結びつく、イデオロギー的には中立の変化だ。
そもそも本書で問題となっているのは、そのようなイデオロギーの問題以前に、政府が人民を、あるいは国家が市民を支配するという常識を覆す国家像、社会像を、ルソーと情報技術の交差点であらためて考えようという試みなのである。それを、政府2.0は、政府(公)と民間(私)の垣根を越えた、市民生活すべてを覆うサービスプラットフォーム(共)になるのだと表現してもよいのかもしれない。」

p.145「
熟議とデータベースが補いあう社会。このヴィジョンは、メディア史との符号からも裏書きされるように思われる。
現代社会には「大きな公共」は存在しない。社会全体を納得させることのできる熟議は存在しない。わたしたちはもはや「小さな公共」の切り貼りでしか政策を作ることができない。」

p.182-184
「あらゆる熟議を人民の無意識に曝すべし。ひとことで言えば、それが本書が掲げる未来の政治への綱領である。
→これはポピュリズムか?最悪の劇場型政治か?という批判への筆者からの反論:

1.ここで目的とされているのは、無意識への従属ではなく、無意識との対決。政治の良識はしばしば大衆の不合理な要求と対峙しなければならない。だからこそ、あらかじめそれに曝される必要がある。
2.そもそもこの流れを止められないのだから、最初から制度化し政策決定に組み込んだほうがよい。政治もますます大衆の即時的で暴力的で無責任な反応に曝されるようになる。選良たちによる密室の熟議などは成立しない。

p.202-203「
民主主義2.0の社会においては、私的で動物的な行動の集積こそが公的領域(データベース)を形づくり、公的で人間的な行動(熟議)はもはや密室すなわち私的領域でしか成立しない。それが本書の最後の命題である。」

p.216「
熟議民主主義とデータベース民主主義。ネットワークを介し、市民同士がとことん話し合えばうまく行くはずだと考える理想主義と、巨大なデータベースを構築し、膨大な数のデータさえ集めればあとは集合知によって最適解が出てくるはずだと考えるもうひとつの理想主義。ユーザーひとりひとりを固有の人間として扱うカント主義的な理想主義と、ユーザーの群れをあたかも動物の群れのように捉えて処理する功利主義的な理想主義。いまの日本で「民主主義2.0」というと、一般にはその二つのどちらかが想像される。
しかし、本書が主題としてきた一般意志2.0の構想は、それら両者の組み合わせとして考えられている。人間と動物、論理と数理、理性と感情、ヘーゲルとグーグル――それらさまざまな対立を「アイロニー」で併存させ、接合したところに、本書が構想する民主主義2.0は立ち現れる。」

p.221-222「
人文科学の視点からは、現代社会は、もはやいかなる理念もなく、無数の共同体=島宇宙に分断さればらばらになってしまったように見える。民主主義の基盤は崩れてしまったかのように見える。しかし、ネットワーク論の視点で見れば、人口70億弱の全世界でさえ、しょせんは「友だちの友だちの友だちの友だちの友だちの友だち」で覆える規模でしかなく、まだ十分に小さい。だとすれば、現代社会においては、むしろそのような個人間の繋がりの「近さ」そしてそれが可能にする偶然の連帯こそが「民主主義への希望」になるのではないか。」

p.245-247「
未来の政治にはもうひとつ重要な側面がある。
たとえば、ひとりの人物を思い浮かべてみるとしよう。
彼は若いが無職だ。とくに才能もない。学歴もない。それでも未来社会においては、政府から毎月の基礎所得を受け取り、それなりに暮らしている。むろん贅沢はできない。恋人もできないかもしれないし、将来のことを考えると憂鬱になるかもしれない。しかし、とりあえず衣食住の心配はない。狭い部屋に住み、安い食事を摂っていれば、最低限の娯楽や情報へのアクセスもまた問題なくできる。いいことばかりではない。たとえば、基礎所得は現金ではなく、追跡可能な電子貨幣として支給され、使途はすべて国家により監視されているのかもしれない(パチンコや競馬に注ぎ込んだり、基礎所得を元手に借金を繰り返したりしないように)。あるいは危険な場所でのボランティアやセンシティブな個人情報の提供が義務づけられてもいるのかもしれない。未来社会では、医療情報やライフログはけっこうなお金になりそうだ。
彼の生活は全面的に国家に依存している。悪く言えば「動物」として飼われている。プライバシーも限られている。
しかし、では彼は永遠に動物性のなかに閉じ込められているかといえば、決してそのようなことはない。
なぜか。それはネットワークがあるからだ。未来の世界は、集合的無意識の可視化が進んでいるだけではない。ソーシャルメディアもまたいまよりもはるかに緊密に張り巡らされている。自動翻訳の精度もはるかに高まっていると考えてよいだろう。そしてそれらのサービスは相変わらずすべて無料だろう。だから彼のまえには、たとえ狭く薄暗い自室に閉じ籠もったままだとしても、世界中の数十億の人間とのコミュニケーションが驚くほど近い距離で開けている。
むろんその可能性のほとんどは彼の人生を変えない。彼と同じような若者のほとんども、またネットに向かってもなにも人生が変わらないかもしれない。しかし、そこにはつねに「事故」の可能性がある。
たとえば彼があるとき、オンラインゲームで擦れ違ったユーザーから、ちょっとしたきっかけで熱帯雨林の話を聞かされたとする(未来世界でもいまだに地球温暖化が話題になっているとして)。その話がなぜか心に残る。彼は無職だ。時間だけはある。暇に飽かしてサイトを巡回してみる。ネットは独学にはたいへん向いているメディアだ。森林破壊や砂漠化や炭素排出権についてみるみる知識が蓄積していく。問題意識も深まる。ときおり意見も開陳する。数年後、彼はいつのまにか、いかなる学歴も資格もないのに、専門家からすらも一目置かれる論客になっているかもしれない。そしてそんな彼がネットに投げた一文が、遠い外国でデモや抗議運動のきっかけになり、あるいはまた逆に、多国籍企業のトップの目に止まりその運営に活かされるかもしれない。
このような「事故」を想像するのはさして難しくない。それはすでに現代ですら起きているからだ。未来においてはさらに頻繁に起きるだろう。」