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宇野常寛・濱野智史『希望論 2010年代の文化と社会』

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希望論―2010年代の文化と社会 (NHKブックス No.1171)

希望論―2010年代の文化と社会 (NHKブックス No.1171)


とっても刺激的な本だったなあ。ここをスタート地点にして、「このことも深めたい」「このことももっと知りたい」と思うことがたくさん。以下、メモ。

p.18「
ちなみに、この対談でも何度かおそらく参照していくことになるでしょうから、「理想の時代」と「虚構の時代」という時代区分について確認しておきましょう。もとは見田さんが、戦後史というのはその時代において何が「現実」の反対語として明確にイメージされているかによって、「理想」→「夢」→「虚構」の三つの時代区分に分けられると提唱したものです。これを社会学者の大澤真幸さんは、「理想」と「夢」というのはだいたい意味として同じなので、45年から70年までは「理想の時代」であるとまとめて使われています。「理想の時代」というのは、戦後の瓦礫の山の中から日本社会が復興していき、アメリカ並みに豊かになるという「夢」が国民レベルで共有され、右肩上がりの高度成長というかたちで実感できていた時代です。またこの時代は、アメリカ率いる西側諸国=資本主義陣営とソ連率いる東側諸国=共産主義陣営とで、世界がはっきりとイデオロギー的に対立していた。だからこそ日本でも共産主義革命を実現するんだという「理想」をかかげた学生運動がおおいに盛り上がることもできた。」

p.21 宇野「
「原爆」的な力と「原発」的な力の違いをもうひとつ挙げるとすると、後者には国家や社会構造を擬似人格的にとらえる古い社会観がほとんど通用しないことだと思うんですよ。かつてマッカーサーが戦後日本を「12歳の少年」と評したことは有名ですが、近代的な国民国家は擬似人格として人々にイメージされ、共有されてきた。かつての国民国家マルクス主義は、個人の人生を意味づける「物語」を与えてくれる<父>のような装置として機能した。社会構造と人間個人との関係、古い言葉を使えば「政治と文学」の関係が、子ども=個人とその人生を意見づける物語を与える<父>との関係だった。
しかし、現代は単純に考えてグローバルな貨幣と情報のネットワークがローカルな法システム=国家の上位にある。この非人格的な法システムとしての側面が強くなった国家は、同時に物語装置としての側面も大きく交代させている。もう国家を<父>のような擬似人格の比喩でとらえることは有効ではないでしょう。これからは非人格的なシステム、グローバルな貨幣と情報のネットワークとの関係で「政治と文学」、社会構造と人間との関係をとらえたほうがいい。アメリカという擬似人格が日本という擬似人格にもたらし、まさに「去勢」として作用した原爆とは異なり、原発は非人格的なシステムの自己増殖による暴走によって社会を内側から変えようとしている。」

p.22 濱野「
本質的には原発問題って、人格的なリーダーシップの問題なんかでは解決しないじゃないですか。巨大企業としての東京電力があり、官僚がいて、御用学者がいて、いわゆる産官学の複合体としての原子力ムラがあり、といった複合的なものの帰結ですよね。しかも今回あらためて分かったように、エネルギーというのはあらゆる産業・生活の根幹にあるわけです。だから原子力問題というのは、非常に膨大な人々の生活と利権と人脈とが複雑に絡み合った、ある種の「生態系」のようなものとしてこの社会に根を張っている。それを突如として東京電力を解体しろとか叫んだところで、そうは簡単にいかないですよ。」

p.27 濱野「
当時を振り返ると、高原基彰さんが震災後いち早く、清水幾太郎の『流言蜚語』をひもときながら興味深い指摘をされていました。清水の考えでは、流言飛語というのは単なる無根拠なデマではなくて、むしろ客観的な報道や公的発表こそがきっかけになってうみだされるというんですね。一方で「原発は安全です」という公式発表があって、他方で「原発は危険だ」という報道があるとする。すると、人々はその2つの情報のあいだに「溝」があると感じる。流言飛語というのは、その2つの客観的な情報のあいだを埋めようとする「セメント」のようなものとして生み出されるのだ、と。」

p.39-40 濱野「
位置情報サービスの「フォースクエア」なんかがまさにそのいい例です。つねにインターネットで繋がりあっていると、「いまリアル空間のここにいるよ」とチェックインすることが、むしろネット上のコミュニケーションの格好のネタになる。このサービスは通常「AR」には分離されませんが、リアルとバーチャルを重ねているという点で言えばAR的と言っていい。これまでの情報技術は、数年前の「セカンドライフ」みたいに、サイバー空間上に「もうひとつの現実」をつくり上げる仮想現実のほうが夢見られていたのですが、むしろその後のネット社会の展開――スマートフォンやソーシャルメディアの普及――は、<いま、ここ>の現実を多重化する拡張現実のほうが広大なフロンテイアとして見えてきている。もはやリアルとバーチャル、リアルとネットというのは対立する二つの世界ではなくて相互に重ね合わされるようになってきたわけです。」

p.76 濱野「
しかし、残念ながら僕は、梅田(望夫)さんが考えるようなかたちでの「希望」というものは、あくまでもアメリカだからこそ通用するものであって、それを単に輸入するだけではダメなんだと考えています。アメリカのフロンティア精神を体現しているインターネットをそのまま日本に輸入すれば、日本社会もアメリカのように変化するはずだ、だからそれが希望なんだという立場は、たしかに美しい話に聞こえる。しかし、残念ながら、こうした「技術が社会を変える」という議論は社会学的には「技術決定論」といって、あり得ない。なぜなら技術というのは社会の一部につねにすでに組み込まれているのであって、むしろ社会のあり方こそが技術の使われ方を決定していくからです。事実、日本では日本独自のガラパゴス的な進化を遂げてしまっている。それが端的に現れているのが、『アーキテクチャの生態系』でも取り上げた2ちゃんねるニコニコ動画の存在なんですね。ここでは梅田さんに対して「ひろゆき」的なものと言ってもいい。」

p.77 濱野「
梅田さんがおっしゃることは、よく分かるんです。でも、だからといって、「アメリカの技術を入れれば日本社会も変わる」という技術決定論の立場に立っている限り、いつまでもその夢が挫折し続けることは目に見えているわけです。だから僕はそれに与したくない。日本社会がほんとうに変わるとすれば、それは借り物の理念ではなくて、日本社会の内側から内発的に生まれてくる、ガラパゴス的でもいいから日本オリジナルな「フロンティア」に向かわなくてはならない。だとすれば、一般にはしょうもないものだと思われている2ちゃんねるニコニコ動画の分析をしていくことで、日本独自の「フロンティア」という希望を見出すことはできないか、というのが僕の立場なんですね。言うなれば、梅田望夫的な「情報技術で社会は変わる」式の技術決定論の立場でもなく、ひろゆき的な「どうせ日本人は2ちゃんねるやニコ動で戯れるだけ」という社会決定論の立場でもない、第三の道を探りたい。」

p.78 濱野「
なぜ僕が梅田さんのような技術決定論を疑ってしまうのかというと、明治以来の日本の近代化の問題をあまりにも反復しているように見えるからです。たとえば夏目漱石が「現代日本の開化」という講演録の中で、西洋の近代化は「内発的」だけど日本はそれをかたちだけ真似た「外発的」なものでしかなくて、だからダメなんだと100年前に言っていますよね。情報社会がここまで達成されたいまに至るまで、この構図は変わってないわけですよ。」

p.184 濱野「
かつてはインターネットというと、「現実逃避ぎみのオタクが部屋に引きこもって利用するもの」というステレオタイプなイメージがあったかもしれませんが、そんなのはとうの昔の話であって、もはや「リアル対ネット」という構図は成り立たない。(略)
何より、冷戦後「大きな物語(イデオロギー)」は失われたと言われて久しいわけですが、たしかにいま世界を揺るがしているのは、「思想=物語」の内容ではなく、ネットワークで繋がるという「形式」なんだと思うんですね。日本での新たな社会運動の可能性を探るときも、この形式にこそ着目する必要がある。」

p.186 濱野
ジェフジャービス『パブリック』=新たなソーシャルメディア時代の「公共性の構造転換」を謳った本
ハンナ・アレントハーバーマスを超えて、新たな時代のパブリックは、「フェイスブックなんかでプライバシーに関するものをオープンにシェアしていくこと。
=繋がること、シェアされること、共有されること、連鎖すること。
ここには「議論すること」は入ってこない

p.192 濱野「
僕は新しい社会運動なり政治形態を考えるときに、この学習=攻略のしがいがあって「フロー経験が生じやすい」という動機づけの構造をつくることが、すごく大事だと思うんです。実際、いま起きているネット発の運動もこれに近いところがあると思うんですよね。」

ウォール街占拠のときの「人間マイクロフォン」の手法は、肉声が届く範囲でスピーチをどんどん伝言していくもの。
=これは、TwitterのRTと同じ。
YouTubeに動画あり:http://www.youtube.com/watch?v=V-L0-xuy9Jw&feature=relmfu

p.194 濱野「
彼女の思想は明快です。要するに現実は「クソゲー」すぎるんだ、ということなんですね。政治も会社も学校も、ルールやゴールが複雑で分かりづらく、誰もが手応えややりがいを得られる仕組みになっていない。だから少なくない人々が現実社会に失望し、ゲームに逃避してしまう。それならば現実のほうをゲーム化し、ハマリやすいかたちに変えればいいじゃないか、と。もはや政治的なイデオロギーや美しい理念だけで人は動かないのだとすれば、ゲームこそが社会運動の原動力tなる。これがマクゴニガルの「ゲーム型社会運動」とでもいうべきコンセプトなんです。
僕が彼女の議論の中でもとくに面白いと思ったのは、ゲームプレイヤーの快楽として「ナヘツ(naches)」という耳慣れないイディッシュ語の言葉を挙げているくだりでした。これは「自分が何かを教えたり、アドバイスしたりした相手が成功を収めたときに感じる誇らしい感情」といった意味の言葉なんだそうですが、彼女が言うには、ゲームというのはこの「ナヘツ」が生まれやすいんだそうです。」