羽生善治『決断力』

決断力 (角川oneテーマ21)

決断力 (角川oneテーマ21)


将棋を学ぶ、というのは勉強するとはまったく違うものらしい。将棋の「感想戦」とかはとっても好きだなあ。ボードゲームを使ってレッスンをしているときに、ときどき将棋を習っている子とかも来るのだけど、やっぱりそういう子たちが、感想戦らしきことをやるんです。自分のゲームをレビューするの。あれって、とっても大事なことだよなあ、と思います。
以下、メモ。

p.28-29「
経験を積んでくると、たくさん読むのではなく、パッと見て、「この手の展開は流れからいってダメだ」「この手しかないから見通しが立つまで考えよう」とピントをあわせられるようになる。逆にいうと、余計な思考が省ける。優れた医者が患者を一目診て、病巣を「ここだ」と見抜く感じだ。ツボを押さえることによって、突然ジャンプして最後の答えに行き着ける可能性が出てくる。今までいっぽいっぽしか進めなかったのが、近道を発見して一気に結論に到達できるのだ。
これは知識がどれだけあってもできない。知識を「知恵」に昇華させることで初めて可能になる。知識をうまくかみ砕いて栄養にする感覚である。
つまり、何かを「覚える」、それ自体が勉強になるのではなく、それを理解しマスターし、自家薬籠中のものにする――その過程が最も大事なのである。それは他人の将棋を見ているだけでは、わからないし、自分のものにはできない。自分が実際にやってみると、「ああ、こういうことだったのか」と理解できる。理解できたというのは非常に大きな手応えになる。」

p.86「
将棋では、たとえば、重荷になりそうな駒であれば早めに切ってしまう。角や飛車という強力な駒でも、守るためにたくさんの駒を使う必要があったら、パッと桂馬や香車などに換え、その駒を他の場所で使う。部分的には損だけれど、全体としてはプラスに成るお言うことが多いのである。」

p.114-118
感情のコントロールができることが、実力につながる
・「玲瓏」と「克己復礼」
・形成が不利になっても顔に出さない
・勝負の結果を次の日に引きずらない

p.157-158「
「三人寄れば文殊の知恵」という諺もある。プロの棋士の間でも、集まって共同で研究や検討をしたりすることがある。一人で考えるか、それとも何人かの人が集まって知恵を出し合うか、どちらがより有効かは、非常に面白いテーマだ。私は、基本的には一人で考えなくてはいけないと思っている。将棋の場合、対局は一人で考えて答えを見いだしていくのだ。一人で考えていき、あるところまで到達する――そのうえで共同して知恵を出し合うのでなければ意味が無いと思っている。
(略)何人かの人と共同で検討すると、理解の度合いが二倍というよりも二乗、三乗と早く進んでいくのは確かだ。だからといって、それに全面的に頼ってしまうと、自分の力として勝負の場では生かせないだろう。
基本は、自分の力で一から考え、自分で結論を出す。それが必要不可欠であり、前に進む力もそこからしか生まれないと、私は考えている。」

p.168-169「
「勉強ができないからという理由で餓死をした人は世界にいない」
ヨーロッパを拠点に活躍する国際ビジネスマンの今北純一さんが、こういっていたのを思い出す。
「人は、学校の勉強ができないからといって、なぜ悩まなければならないのか」と考えた今北さんは、餓死するようなことがないなら、勉強ができなくても生きていける。だとすると、好きなことをやったらいいのではないかと気づいた。「勉強ができなくても、安心していいのですよ」と。
そして、勉強ができる、できないと、頭がいい悪いとは違うと、
「頭がいい悪いで餓死をする可能性はあると思うのですね。自分で何も考えずに生きていったら、根なし草になって最後は死んでしまうかもしれないし、自殺するかも知れませんから」「頭の良し悪しと学歴があるなしとは、まったく独立していることを理解すべきだと思います。(略)」(『定跡からビジョンへ』文藝春秋刊)

p.177「
最近の子どもは、教えてもらわないとうまくならない傾向があるとよく聞く。たとえば、子どもに問題を出すと「まだ習っていない」からと、自分の頭で考えようとしない。
将棋の場合は特にそうだが、どの世界でも、教える行為に対して、教えられる側の依存度が高くなってしまうと問題である。将棋は、自分で考え、自分で指し手を決めていくものだ。誰かに教わってそれをそのまま真似たり、参考にしてやっていくことが習慣化してしまうと、局面を考える力は育たなくなってしまう。」

p.199「
世界中で広く普及しているチェスも将棋も淵源は同じである。紀元前2000年ごろにインドで発明された「チャトランガ」が西洋に伝わりチェスになり、平安時代に日本に輸入されて独自の発達を遂げたのが将棋である。」