古市憲寿『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)


文化系トークラジオLifeで「ものすごくいいキャラだな〜」とか思っていた古市憲寿さんの著書。めちゃめちゃおもしろかった。今年いちばんの刺激本かも(まだ1月だけど)。
ピースボートに乗り込んで、そこでフィールドワークをしての若者論、といえばいいのかな?本書の主張は「若者をあきらめさせろ」だ、と著者は言い切っている。そして、人生は「クソゲー」だと言い切る。

僕が「やればできる」や「夢は叶う」のような言葉に感じる違和感は、クルーズ中に見た夜の海の怖さに似ている。水平線さえ見えない夜の闇の中では、自分がどこに進んでいるのか全くわからない。そんな中で「やればできる」と言われても、どこへ進んだらいいかなんてわかる訳がない。
何のヒントもなくフィールドに放り出され、「やればできる」と急かされる。ゲームでは、そういう作品のことを「クソゲー」と呼ぶ。
僕達が生きるこの社会には、「クソゲー」と呼ばれるゲームの要素がいくつも含まれている。チュートリアル(ゲームを進めるための解説)が不十分でゴールが不明瞭。自由度が高そうに見えて、実は初期パラメーターに大きく依存する行動範囲。セーブもできないし、ライフは一回しかない。
僕が特に問題だと考えているのは、レベルアップ制度の不備だ。日本では、向上心がある人でも学歴がない場合やフリーターを続けているような場合、社会的地位や収入を上昇させるようなレベルアップの仕組みが整備されていない。たとえば「25歳、フリーター、最終学歴は高校卒、着実なキャリアアップを目指したい」という人に、あなたはどんなアドバイスをすることができるだろうか。
あのアメリカにさえ、キャリアラダーと呼ばれる仕組みがある。(p.266-267)

でも、「あきらめてひねくれちゃっているわけでもない。だって最後にはこう言うから。

そもそも「あきらめろ」と言ったところで、やる人はやる。たとえ一人でも。(p.273-274)

とっても良かったです。以下、メモ。

p.12「
本書の主張が「若者よ、あきらめろ」ではなく「若者をあきらめさせろ」というのがポイントだ。それは、僕が「あきらめられない若者」ではなくて、「あきらめさせてくれない社会」という構造を問題にしているからである。」

p.27-28「
(明治時代以降)人びとは身分など旧来のシステムから「自由」にはなったが、バラバラにはならなかったということだ。たとえば田舎から状況してきた人は、「会社」で働き、「結婚」して「家族」を持ち、「地域」の一員として暮らすようになる。つまり旧来の共同体を一度壊して、所属先がなくなった人びとを「家族」「地域」「会社」「国家」といった新しい共同体に再編成する仕組みが近代化でもあった。
そのシステムを支えていたのが、戦前なら「富国強兵」、戦後なら「経済成長」という誰もが「いいこと」だと信じて疑わなかった「大きな物語」だ。」

p.31「
先進国では今までのように同じような人を大量に雇うモデルが通用しなくなる。言われたことだけをやる人材を正社員として一生雇っていく必要はない。求められるのは、必要な時だけ働いてくれる非正規労働者。もしくは新しい価値を自分で生み出すことができ、交渉やネットワーク形成能力などに長けた「人間力」のある人材だ。
流動的な社会では従来のメリトクラシー(学歴社会)も機能しなくなる。ペーパーテストで計測できるような「近代型能力」、つまり計算能力や知識量の多さだけでは足りない。それに加えて後期近代では「生きる力」や「人間力」といった「ポスト近代型能力」が必要とされる。もう東大を出ただけのガリ勉では、この複雑で流動的な社会を渡り歩いていけない。」

p.152「
「思考は現実化する」という、社会構造や環境の変革を自己啓発に求める発想方法は、「世界平和」を具体的な手段によって実現する前に、「想い」という個人の問題に還元するピースボートに極めて近いと言えるだろう。
若者たちにとって、ピースボートの掲げる政治的理念と、「ポップ心理学」や自己啓発本の提供する言説資源に大きな違いはない。「現代的不幸」の受け皿として、両者の果たす役割にも大きな違いはない。むしろこの両者の親和性こそが、ピースボートが政治的理念を掲げながらも、多くの若者から支持されている理由だと考えることができる。」

p.156
ピースボート乗船者の4類型
セカイ型:「セカイヘーワ!」
自分探し型:「こんなはずじゃなかった…」
文化祭型:「なんだかわからないけど、毎日楽しい!」
観光型:「ピラミッドとマチュピチュが楽しみ。」

p.254-255「
ピースボートが残した、「目的性」のない「共同性」だけのコミュニティ。これって何かに似てないだろうか。そう、ムラである。ムラには、生活を共にするとか、いざという時は助け合うとか、そういう意味での目的はあるが、社会的ミッションのようなものはない。
このような目的のない血縁や地縁をもとにした集団を、古典的な社会学では「コミュニティ」と読んだ。その「コミュニティ」に対比されるのが「アソシエーション」だ。「アソシエーション」とはある目的のために人が集まった企業などの集団を意味する。(略)
近代は、この「アソシエーション」の時代だったはずなのだ。身分や階級から自由になった個人が、「お金儲け」のために企業を作り、「教育」のために学校を作り、「平和活動」をするためにピースボートを作る。本書の図式で言うと「目的性」と「共同性」の重なっている部分、まさにホネットが「共同体」と呼んだ領域である。
しかし、「セカイ型」と「文化祭型」の若者が辿りついたのは、「目的性」がなく「共同性」だけのぬくぬくした温かい居場所だった。それはまさに「コミュニティ=ムラ」そのものである。
下品な言い方をすれば、希望難民たちは「現代的不幸」に対しムラムラして(衝動や感情が抑え切れないこと)ピースボートに乗り込み、目的性を冷却させた結果、「村々する若者たち」になったのである。
コピーライター気取りでもう少し口を滑らせておけば、現代は「ムラムラ(村々)する時代」と表現することができるだろう。多くの人が日常に閉塞感を感じると同時に、そこからの出口を探している。この何かをしたいという「ムラムラ」する気持ちを抱えながら、実際には決まったメンバーと同じような話を毎日繰り返して「村々」している。そして「ムラムラ」を「村々」へ再編成する装置がピースボートなどの「承認の共同体」なのである。」

p.264
この本の発見
(1)「共同性」だけを軸にした「目的性」のない共同体が存在すること
(2)その「ポストモダン・コミュニティ」は社会統合の基礎にもなり得ないし、社会運動との接続性を担保するものではないこと
(3)それは承認の正義を担保する共同体ではあるものの、「目的性」の「冷却」によって経済的再配分を求める闘争に転化する訳ではないこと

p.266-267「
僕が「やればできる」や「夢は叶う」のような言葉に感じる違和感は、クルーズ中に見た夜の海の怖さに似ている。水平線さえ見えない夜の闇の中では、自分がどこに進んでいるのか全くわからない。そんな中で「やればできる」と言われても、どこへ進んだらいいかなんてわかる訳がない。
何のヒントもなくフィールドに放り出され、「やればできる」と急かされる。ゲームでは、そういう作品のことを「クソゲー」と呼ぶ。
僕達が生きるこの社会には、「クソゲー」と呼ばれるゲームの要素がいくつも含まれている。チュートリアル(ゲームを進めるための解説)が不十分でゴールが不明瞭。自由度が高そうに見えて、実は初期パラメーターに大きく依存する行動範囲。セーブもできないし、ライフは一回しかない。
僕が特に問題だと考えているのは、レベルアップ制度の不備だ。日本では、向上心がある人でも学歴がない場合やフリーターを続けているような場合、社会的地位や収入を上昇させるようなレベルアップの仕組みが整備されていない。たとえば「25歳、フリーター、最終学歴は高校卒、着実なキャリアアップを目指したい」という人に、あなたはどんなアドバイスをすることができるだろうか。
あのアメリカにさえ、キャリアラダーと呼ばれる仕組みがある。」

p.268 「
かつてはメリトクラシー(学歴社会)が「若者たちをあきらめさせる」役割を果たしていたと書いた。それは、近代という堅い時代が可能にした仕組みでもある。教育と労働市場がうまく連携していた時代に、企業に入ることはすなわち大人になり、若い時代の夢を諦めることだった。
しかし、今僕達が生きるのはグニャグニャした後期近代。誰もが終わりなき自分探しをしなくてはならない時代である。だから、この時代に夢を追いかけてしまうのは不思議なことじゃない。むしろ「自分にはもっと何かがあるんじゃないのか」と考えてしまうのは後期近代人の宿命のようなものだ。」

p.270-271「
だけど、社会を変えるのは別に「承認の共同体」である必要はない。ピースボートが与えてくれたような優しい居場所。お金がなくても、友だちと楽しく過ぎていく時間。それだけで十分じゃないか。そう、本書は一回りして結局1章で色んな人が言っていた「承認の共同体」論に戻ってきた。若者たちにはコミュニティを与えておけばいい、と。
だが、それは社会を変えるためではない。若者をあきらめさせるためだ。
メリトクラシーが壊れた社会で、それなのに「夢を追うことの大切さ」が繰り返し言い立てられる社会で、若者を「あきらめさせる」必要性はますます増しているように思える。その解決策の一つがまさに「コミュニティ」であり「居場所」なのだ。」

p.273-274 「
この本では今の社会の仕組みを批判しながら、同時に「若者をあきらめさせろ」と言ってきた。つまり、現在のひどい社会を所与のものとした場合に限って、「あきらめの装置」としての「コミュニティ」や「居場所」を評価しているに過ぎない。それは文字通りシェルターであるべきで、「居場所」にしか希望がない社会が健全だとはとても思えない。
じゃあ、誰が「あきらめない」で社会を変えればいいのだろうか。それはあきらめられない人が勝手にすればいいことだと思う。それがエリート主義だと批判されるならば、その通りだというしかない。
ギャルサーを例に挙げたが、「共同性」を維持しながら「目的性」を失っていないように見える団体は多くの場合、冷静で聡明な(できれば「人間味」があって時に「お茶目」な)「エリート」が率いているように思える。彼らは「共同性」に甘んじることなく孤独な闘いを続けている。
社会全体で見ても、運動体規模で見ても、共同体をただの「居場所」だと考えず、「目的性」の達成のためなら冷徹になれ、だけど対外的にはお茶目な「エリート」が社会を変えていくしかないと思う。
そもそも「あきらめろ」と言ったところで、やる人はやる。たとえ一人でも。」