『岡潔集 第一巻』

岡潔集〈第1巻〉 (1969年)

岡潔集〈第1巻〉 (1969年)


岡潔さんは数学者。この全集のなかの『春宵十話』を読みたくて借りた。この『春宵十話』は毎日新聞に10日間に分けて連載されていたものらしいです。松岡正剛さんによる書評もあり。巻末には石原慎太郎との対談があり、さらに解説は保田与重郎。豪華だ…。
岡潔さん、中学校時代に「missされる人となれ」とよくいわれた、と語っているが、これいいな。
あとは子育てをしている身としては、

まず一、二、三歳は大自然がもっぱら情緒つまりこころを育てる季節で、四歳では時空を教え、五歳で自他を教え、六歳で集まって遊ぶことその他のおもしろさを教える。ここまでの家庭教育について述べてみたい。
私は一、二、三歳では母が愛と信とを教え、四、五、六歳では父が信と欲とを教えて道義の根本をしつけるとよいと思う。
一、二、三歳の幼児はどうして物心両面の森羅万象を学びとるのだろうか。それは「見る目」でなく「見える目」で見るのである。幼な児の無垢清浄な瞳をみると、万象のほうから幼な児の心情に飛びこんでくるのがよくわかる(略)
そこでこの時期には母は子に信をどう教えるかといえば、信頼を裏切らないようにすればよいのである。
(略)
四つ以後は「見える目」が真智でなく垢質がまじって妄智の目となり、さらに動物的な本能としての「見る目」が発達する。それで父の教育もやりにくいわけだが、何よりも言行の一致によって幼児の信をつちかう必要がある。やはり信頼を裏切ってはならないのである。父の教えるべき欲が、もちろん私を取り去った向上欲、救済欲でなければならないのはいうまでもない。(p.105-106)

とかのあたりも素敵。父として教えるべきこととかね、考えちゃうね。
あとは、教育学に対しての苦言とかも。

娘が学芸大学に行っているので教育学を学んでいる学生たちのことを聞いてみたが、ひどいものだと思った。「何々教育学」というのがそこら中いちめんにあり、必ず出席をとるだけでなく試験をする。おもしろくないのを覚えなければならない。ゼミナールだ、講義だといって自分の勉強はちっともしていない。こうして本来のものからはずれたものになり、理性が理性として働かず、鉛のさびをかぶせたようになってしまう。
こういう人たちが先生になり、その調子で教える。義務教育の子に遊ぶひまもないくらいいろんなことを教え込む。その結果、子供たちは、わかってもわからなくてもぼうっとしていることになり、いろいろなセンスが欠けて正義心、廉恥心も働かなくなるのだ。(p.95-96)

数学者というよりなんだか哲学者というか思索家っぽい感じですが、読み応えありました。他にもいい言葉たくさん。以下、メモ。

p.13-14「
最近、ある米国の医学者が犬を使って交感神経系統を切断する実験をやったが、結果は予期したとおり下痢を起こし、大腸に潰瘍ができた。人でも犬でも、根本の整理は変わらない。感情に不調和が起こると下痢をするというが、本当は情緒の中心が実在し、それが身体全体の中心になっているのではないか。その場所はこめかみの奥のほうで、大脳皮質から離れた頭の真ん中にある。ここからなら両方の神経系統が支配できると考えられる。情緒の中心だけでなく、人そのものの中心がまさしくここにあるといってよいだろう。
そうなれば、情緒の中心が発育を支配するのではないか、とりわけ情緒を養う教育とは何より大事に考えねばならないのではないか、と思われる。単に情操教育が大切だとかいったことではなく、きょうの情緒があすの頭を作るという意味で大切になる。情緒の中心が実在することがわかると、劣等生というのはこの中心がうまくいってない者のことだから、ちょっとした気の持ちよう、教師の側からいえば気の持たせ方が大切だということがわかる。また、学問はアビリティーとか小手先とかでできるものではないこともわかるだろう。」
→情緒が頭をつくる

p.58-63
日本人と直観
直観には三種類ある:
1.人に実在感や肯定感を与えるもの
 →冷たいとか暖かいとかを知る感覚
 →間違いを見つけて直す
2.たとえば俳句や歌の良いしらべを良いと断定するもの
 →これがあるゆえに真善美が存在しうる
 →学問や芸術はここに基礎がある
3.全体を統一して働かせるもの
 →一つの生涯をひとつの行為にあてることができる

「その側の垢が取れても、内側の垢はまだ残っている。ちょうど鉛のさびのように、さびているという感じはないが、輝きは出ない。この状態が妄智である。これは、すぐれた人がその場にいあわせなかったら、あの人のいるときとは違うと感じることができる、そんな程度の智力だといえる。中学校時代に「missされる人となれ」とよくいわれたが、このmissというのが「いないことに気づく」という意味で、いまいっていることに当たる。
人を見分けることのできる人はまことに少ない。目の前によいものがある場合にこれをよいと見るほど簡単なことはないと思うのに、これがなかなかできない。それは智力の垢が取れないからで、内側の垢まで取れてしまうと、すぐれた人を一目見ただけでこれは人物だと見抜くことができる。」

p.95-96「
娘が学芸大学に行っているので教育学を学んでいる学生たちのことを聞いてみたが、ひどいものだと思った。「何々教育学」というのがそこら中いちめんにあり、必ず出席をとるだけでなく試験をする。おもしろくないのを覚えなければならない。ゼミナールだ、講義だといって自分の勉強はちっともしていない。こうして本来のものからはずれたものになり、理性が理性として働かず、鉛のさびをかぶせたようになってしまう。
こういう人たちが先生になり、その調子で教える。義務教育の子に遊ぶひまもないくらいいろんなことを教え込む。その結果、子供たちは、わかってもわからなくてもぼうっとしていることになり、いろいろなセンスが欠けて正義心、廉恥心も働かなくなるのだ。」

p.105-106「
まず一、二、三歳は大自然がもっぱら情緒つまりこころを育てる季節で、四歳では時空を教え、五歳で自他を教え、六歳で集まって遊ぶことその他のおもしろさを教える。ここまでの家庭教育について述べてみたい。
私は一、二、三歳では母が愛と信とを教え、四、五、六歳では父が信と欲とを教えて道義の根本をしつけるとよいと思う。
一、二、三歳の幼児はどうして物心両面の森羅万象を学びとるのだろうか。それは「見る目」でなく「見える目」で見るのである。幼な児の無垢清浄な瞳をみると、万象のほうから幼な児の心情に飛びこんでくるのがよくわかる(略)
そこでこの時期には母は子に信をどう教えるかといえば、信頼を裏切らないようにすればよいのである。
(略)
四つ以後は「見える目」が真智でなく垢質がまじって妄智の目となり、さらに動物的な本能としての「見る目」が発達する。それで父の教育もやりにくいわけだが、何よりも言行の一致によって幼児の信をつちかう必要がある。やはり信頼を裏切ってはならないのである。父の教えるべき欲が、もちろん私を取り去った向上欲、救済欲でなければならないのはいうまでもない。」

106-107
人の子の教育には3つの季節に分けられる:

6歳
→第一次的に記憶力が頂点に達し、これに伴って第一次的知的興味が動き出す
→自然的・永続的記憶力
→むかし、論語の素読をやらせていたのもこの年だ。ごく大切なもの、美しいもの、それもできるだけ長いものを覚えさせればいい。また喜んで覚えるに違いない。
→「ここにどうして坂があるの?」というような質問をする

中学三年および四年
→第二次的に記憶力が頂点に達し、第二次的知的興味が動き始める。
→精神統一による一時的な記憶力

p.303 対話
石原慎太郎との対談に、解説は保田与重郎。豪華だ…