鈴木謙介『サブカル・ニッポンの新自由主義』

サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権批判が若者を追い込む (ちくま新書)

サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権批判が若者を追い込む (ちくま新書)


ものすごく興味深い本だった。読んでいて楽しくもあり、どうしたらいいのかわからなくもなり。すごく筆者の叫びが聞こえるような以下の部分、大好きです。

必要なのは「苦しい」と率直に言うことであり、そして互いにそれを聞き合うことだ。根拠などなくていい、美しく飾り立てる必要すらない。「このまま殺されるくらいなら、いっそみんなを殺してやる」と自らを追い込まないためにこそ、語り合い、聞き合うことが求められている。そしてそのための場所は、サブカルチャーを通じて、この社会には無数に用意されているのだ
社会科学の言葉と、文芸の言葉。形式としての客体と、声を上げる主体。いずれも私たちが生きていく上で、欠かすことができないものだ。「苦しい」と語り合う声が、いつしか「楽しい」と語り合う場を生み出すなら、そこにこの社会の希望がある。その希望こそは、私たちが「ほんとうに」幸せになるための社会変革を促す力になるだろう。

いろいろあるけど、でも、やるんだよ!
以下、メモ。

p.44-45「
若者たちのねじれた願望の焦点となっているのは、正社員=一人前という価値観であり、それを元に設計される人生なのだった。不況期に新卒雇用を抑制され、あてどなくそのコースから遠ざかってしまった世代、「ロストジェネレーション」にとってそれは、あこがれの対象であると同時に憎しみの対象でもある。
そのアンビバレンツな感情は、若年層の中でも特に自らの境遇に不遇感を持っている層に、一種のラディカリズムに対する共感を呼び起こしているのではないかと思う。自分たちは本来、こんな目に遭うはずがなかった。現在の境遇は、「既得権」に居座っている連中が、地位と資源を独占しているからに違いない。それは、本来なら自分たちが持っているべきものである。だから、それをよこせと。
(略)
ロジカルに突き詰めれば、既得権に対する要求を、「それは本来自分たちの手元にあるべきだから」といった理由で正当化しようとすれば、「そんなことを言っている君こそ、本来、それを持つべき人ではない」と宣告された人には何も与えなくていいということになる。「より公平な評価をせよ」という主張に与することなく、こうした言い返しを回避しようとすれば、「うるさい、とにかくそれを俺によこせ」というラディカリズムに帰着するのは必然だろう。」

p.90-91「
むろん、宿命に甘んじられるほど、多くの人は強くはない。自らの現在の地位を宿命だと認知した人は、次に、そんな自分のままでも認めてくれる場所を探すようになるだろう。つまり「自分探し」だ。この場合の自分探しとは、「誰にも左右されない自分」であると同時に、自分という存在をそのままに認めてくれる居場所探しでもある(楽)要するに彼らは、自分らしい自分、と自己認知されている事柄(「ありのままの自分」)への承認を、積極的に他者に求めているのである。
実は速水健朗も指摘しているとおり、対人サービス業では、こうした自分探しの傾向を効率的な業務遂行に利用するシステムを取り入れる現場が増えている。自らの仕事は、他者に奉仕する「よろこび」を得られるものであり、それはどんなお金にも換えがたいものである、という感情を喚起するように、従業員の育成プログラムが組まれることで、経営者は金銭で対価を払えないことの埋め合わせができるし、従業員はそこに「こんな自分でも認めてくれる場所があったという承認感覚を得ることができる。
本田由紀は、こうした職場における擬似的な埋め合わせ関係を「やりがいの搾取」と読んで批判する。」

p.144
近代資本主義の労働観は「安息日を待ち続ける」もの。それに対して、ハッカーに代表される新しいタイプの労働観は、日曜日のように平日を生きる、つまり自分自身の楽しみや「あそび」のために働くことを求める。

p.153-154
ハッカーのもつ信条:

  1. 情報はすべて自由に利用できなければならない
  2. 権威を信用せず、反中央集権を進めるべきだ
  3. ハッカーはその人の属性ではなく、ハッキングの能力で評価されるべきだ
  4. 美や芸術はコンピュータで作り出せる
  5. コンピュータは人生をよい方向に変える

p.229-230「
ただ普通に幸せに「なる」ということを宣言し、実践するためにこそ、豊かな「サブカル社会ニッポン」のりソースは使われなければならない。そこでの声を大文字の政治の中で主体化することや、まして、サブカルチャーそのものを政治化することが求められているのではないのだ。それは生きるための手段ではなく、生きること、幸せになることそれ自体として、私たちの周りに存在しているのである。
いつか訪れる救済に希望を託す革命の論理が機能し得たのは、世界をラディカルに変えていくことが、私たちがほんとうに手に入れるべきものを教えてくれる最良の手段だと見なされていたからである。だがそれは現在の私たちが、未来に対する負債を背負っているという意識の下でしか可能ではない。そしてその負債を払わされているという認識が当然のように求められるようになるとき、「いつか訪れる革命」のごときメシアニズムは、未来のための自己犠牲と献身を要求するカルトへと堕す。他方で、世界のラディカルな変革が進むほど、希望は後悔へと変貌し、どちらを向いてもユートピアは(字義通り)存在しないことが明らかになってしまう。
「あいつらの取り分を奪えばうまくいく」「グローバルな市場のやり方に合わせればうまくいく」「いまある環境を全否定すればうまくいく」といった考えの持つ限界を克服するために、私たちに貧困や格差や競争や強さを要求しているなにものかを捉え、批判し、現在を食い破っていくためにこそ、それらは必要とされている。新自由主義というモードに浸されたサブカル・ニッポンは、しかしそれゆえに、私たちの実存の声を上げる場へと反転する力を有しているのである。
必要なのは「苦しい」と率直に言うことであり、そして互いにそれを聞き合うことだ。根拠などなくていい、美しく飾り立てる必要すらない。「このまま殺されるくらいなら、いっそみんなを殺してやる」と自らを追い込まないためにこそ、語り合い、聞き合うことが求められている。そしてそのための場所は、サブカルチャーを通じて、この社会には無数に用意されているのだ
社会科学の言葉と、文芸の言葉。形式としての客体と、声を上げる主体。いずれも私たちが生きていく上で、欠かすことができないものだ。「苦しい」と語り合う声が、いつしか「楽しい」と語り合う場を生み出すなら、そこにこの社会の希望がある。その希望こそは、私たちが「ほんとうに」幸せになるための社会変革を促す力になるだろう。」