國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
- 作者: 國分功一郎
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 2011/10/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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いったいなんだそりゃ?と思ってしまうタイトルでしたが、問題意識はとっても納得します。ハングリーさがないよなあとか若手に思うことがあるものの、逆に途上国とかの激烈な反政府デモを見ると、日本はもう満たされてしまってこういうエネルギーはないよなあ、とも思う。
資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。
そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、インターネットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。
なぜ暇は搾取されるのだろうか?それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇のなかで退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。では、どうすればよいのだろうか?なぜ人は暇のなかで退屈してしまうのだろうか?そもそも退屈とは何か?
こうして、暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問があらわれる。<暇と退屈の倫理学>が問いたいのはこの問いである。(p.23-24)
けっきょく、戻ってくるのは「いかに生きるべきか」ということであり、これはまさしく倫理学の領域だな、と。