池田晶子『14歳の君へ どう考えどう生きるか』

14歳の君へ―どう考えどう生きるか

14歳の君へ―どう考えどう生きるか


「どう考え、どう生きるか」って、子どもの頃には他に楽しいことがあり過ぎて、僕はちっとも考えていなかった気がする。だって、部活のこととか友達のこととか、勉強のこととか、好きな女の子のこととか、そういうこと考えるのに忙しかったし。そういうことについて友達とくっちゃべっているのも楽しかったから。
だから、いま教育業界で働いていて、そういうことを子どもたちに教えたいと思いながらも、それを楽しさとかで表面を飾って渡さないとそのままでは通じる人は少数だ、と割り切っている。大人になって、いま、若い世代に伝えたいこととしては、かなりこの本に書かれていることは「おお!」「そうそう!」と思えることだった。

p.50「
もし君が、本当に正しい考え、誰が考えてもそうであるような正しい考えを知りたいと望んでいるなら、話し合いの場面での態度も、必ず変わるだろう。
もし誰かに、君の言うことは正しくないと言われても、もう腹が立たない。本当に正しいことを知りたいと思っている君は、そう言われたら、どこが正しくないのかをさらに考えて、さらに正しい考えを知ろうとするはずだ。君の目的は、自分の意見を主張することではなくて、正しい考えを知ることだからだ。
逆に、自分の意見を自分の意見だから正しいと主張する人は、正しくないと言われると、猛烈に腹を立てるだろう。そして、自分の意見と違う意見は、自分の意見と違うから正しくないと言うだろう。その人の目的は、自分の意見を守ることで、本当に正しいことを知ることではないからだ。だけど、本当に正しいことを知らなくて、どうして自分の意見を正しいと主張できるのだろう。いや、だからこそそういう人は、より大声で自分の意見を正しいと主張することになる。自信がないからだ。

p.67「
学問をするということは、いつも知りたくて考えてきた人間の知性の営み、その長い歴史的営みに参加するということだ。これはずいぶん魅力的なことだと思わないか。科学も文学も、過去のどんな立派な人が残した仕事も、自分と同じように知りたかった人間がしていた仕事だと思うと、何だかいとしくて懐かしいような感じになるはずだ。
今の学校でのつまらない勉強も、そういう素晴らしい学問の世界の一端だと、そのはじっこの部分に触れているのだと、こう思って、今はこの先に期待しよう。学問の世界は、世界つまり自分そのものとして、本当に奥が深いものですよ。