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宇野常寛『リトル・ピープルの時代』

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リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代


表紙が仮面ライダーですよ!ビッグ・ブラザー→リトル・ピープル、ひとつの正義→複数の正義、父としての在り方、のようなテーマが、村上春樹を論じ、平成仮面ライダーを論じ、とだんだん語られていく。評論って、「ああ、そういう読み方もあるのかあ」と思う程度にしか感じられない僕でしたが、本当に楽しんで読めた。平成仮面ライダーは、自分も好きで見ているし、教え子たちが歴代平成ライダー達を愛していていろいろ教えてくれたりもしたからね。彼らの話を聞きながら感じていたことがまとめられると、ががーんとショックを受けますよ。

「平成仮面ライダー」シリーズ=日本的想像力におけるヒーロー回路を決定的に書き換え(p.245)
(1)「正義」の複数化
(2)「変身」の再定義
(3)超越/内在図式の解体

「正義」の複数化、というのはわかる。敵を倒さないエピソードがあったりもしたしね。「変身」の再定義、というのも楽しかったな。これを読んでから「電王」を見ると、また見方が全然違う。
あと、作り手が世界から否応なく影響を受けているのだ、という話も。白倉伸一郎氏による『仮面ライダー龍騎』についてのコメント(p.261)がすごい。こうして思いを持ってモノを作る人がたくさんいるのは素敵だと思う。

企画段階で「9・11」が起きたんですよ。その後のブッシュ政権の対テロ戦争をふまえて感じたのは、「良い者」が次々と「悪い者」をやっつけて最後は悪の本拠地を叩くというこれまでのヒーロー物語を繰り返していていいのだろうかという疑問でした。今の時代に冷戦時代の精神構造を子どもに植えつけるのは、非常に危ないと。何が正義なのか、疑いの目を子どもたちに持ってもらいたいと思ってつくったのが「龍騎」です。

他にもいろいろ。いや、今年いちばん刺激的な本でした。読むのが本当に楽しかった。ますます、仮面ライダーをさかのぼって見たくなるじゃないか。
以下、メモ。

p.114「
1Q84』で、天吾とふかえりはまさに「ワクチンとしての小説(機能の言葉)」=『空気さなぎ』を共同執筆する。彼らの目的はワクチン=いい物語を流布することで、リトル・ピープルの生む小さな檻=小さな物語に私たちが性急に依存することにより(連合赤軍やオウムのように)暴走してしまうことを回避することだ。

p.164「
異者(エイリアン)の侵略に対して、とりあえず地球防衛軍で対処する。そして、力が及ばない時に、それがほとんどいつもなのだが、ウルトラマンが登場する。地球防衛軍は“ウルトラマンの傘”の下にあるのだ。思えば、防衛軍の隊員が 胸につけてるマークは流星、というのも、星条旗の星の一つを連想させるし、ウルトラセブンという名前もアメリカ第7艦隊を想起させる。
呉智英「怪獣の名前には、なぜ『ラ行音』が多いか?神学としてのウルトラマン研究」「怪獣学・入門!」(別冊宝島 映画宝島VOL.2)JICC出版局/1992年

p.156「
ビッグ・ブラザーとはウルトラマンであり、リトル・ピープルとは仮面ライダーである----。本章では春樹が書き続けた1968年から現在までの歴史----ビッグ・ブラザーが徐々に壊死し、リトル・ピープルの時代を迎えるまでの時間をウルトラマンと仮面ライダー、日本を代表するふたつのヒーロー(番組)の分析を経由して振り返る。まさに60年代の「政治の季節」に誕生したウルトラマンと、70年代の「政治の季節」の終わりに誕生した仮面ライダー----商業的に「正義」を記述「させられてしまう」ヒーロー番組が社会現象化したとき、そこにはまさに市場に点在する人びと=リトル・ピープルたちの無意識が獲得した想像力が描き出す「正義」の像を結ぶのだ。そしてこの「正義」は春樹が模索した「コミットメント」の問題と相似形をなす。

p.245「
かくして、昭和の時代は脱物語化することでその姿を隠蔽していた、「本来の」姿を獲得して、仮面ライダーは再登場する。リトル・ピープルの時代に対応した新しいヒーローとして、仮面ライダーたちは生まれ変わったのだ。
それは問われるべきものそれ自体の変化を意味する。村上春樹も、そして昭和のヒーローたちもいかにして「父(正義の執行者)になる/ならない」かを問うことでその表現を成立させていた。だが、生まれ変わった仮面ライダーたちが直面したのは、自動的かつ不可避に世界に溢れかえっている「父」たちの世界だった。そこで問われるのは「父」たちの関係性、いかにして「父」同士がかかわるか、だった。


「平成仮面ライダー」シリーズ=日本的想像力におけるヒーロー回路を決定的に書き換え
(1)「正義」の複数化
(2)「変身」の再定義
(3)超越/内在図式の解体

p.261
白倉伸一郎による『仮面ライダー龍騎』についてのコメント
企画段階で「9・11」が起きたんですよ。その後のブッシュ政権の対テロ戦争をふまえて感じたのは、「良い者」が次々と「悪い者」をやっつけて最後は悪の本拠地を叩くというこれまでのヒーロー物語を繰り返していていいのだろうかという疑問でした。今の時代に冷戦時代の精神構造を子どもに植えつけるのは、非常に危ないと。何が正義なのか、疑いの目を子どもたちに持ってもらいたいと思ってつくったのが「龍騎」です。

p.263-264「
そこには基本的に「悪」は存在しない。存在するのは13通りの、いやそれ以上の(n通りの)「正義」だ。この呼称が気に入らないなら「欲望」でも構わない。同作において(従来の)「正義」は「欲望」の下位概念だ。13人の仮面ライダーは、それぞれが信じるもの/欲望するものを賭けてゲームにコミットし、殺しあう。

p.267「
仮面ライダー龍騎』は、そのラディカルさゆえに大きな議論を呼んだ。仮面ライダーたちがそれぞれの正義、いや欲望を掲げて殺し合う展開は、ヒーロー番組こそが「こんな時代だからこそあえて」「勧善懲悪を子どもたちに教える」「教育番組でなければならない」と主張する中高年の消費者層=本郷猛から「正義」を教わった世代の消費者層からは強い反発を受けることになった。しかし、男子児童をコアターゲットにもつ本作の商品展開は成功し、シリーズの継続が決定づけられた。「子どもたち」は世界がもう少し単純だった頃に帰りたい大人たちのノスタルジィよりも、現実を受け止めた新しい表現を選択したのだ。

p.277「
9・11のアメリカ同時多発テロが象徴するリトル・ピープルの時代がいよいよ顕在化したゼロ年代----仮面ライダーは正義の不可能性が前提となった世界を受け入れることで復活を遂げた。
正義とは個人の欲望の一種でしかなく、各々のプレイヤーの興じるゲームでその暫定的な正当性が問われる----仮面ライダーは正義/悪についての問題設定を立て直した。あるいは「父になること」をめぐる問題設定を書き換えた。もはや問題は「(その不可能性を引き受けながら)いかに正義を成し遂げるか/父になるか」ではない。その不可能性を前提としたとき、既に私たちは小さな正義を掲げる小さな父である。いや自動的にそう機能してしまう。あとは、複数の小さな正義/父たちの調整の問題(ゲーム)が残されているだけなのだ。『仮面ライダーアギト』から『仮面ライダー龍騎』へ----平成「仮面ライダー」シリーズは9・11の世界的な衝撃を、極めてラディカルなかたちで吸収した物語的想像力として進化したのだ。

p.341-342「
徹底して内在的であるがゆえに超越的であるという「仮面ライダー」というヒーローのコンセプトは、10年の間に徹底と進化を続け、ついに「壁」自体、「システム」それ自体であるヒーローを生み出した。キャラクター的複数性をコントロールしそのアイデンティティを自由に記述し、自ら生み出す暴力=グローバル/ネットワーク化の反作用を自ら排除し得るシステムそれ自体としてヒーロー----世界の破壊者/守護者である仮面ライダーディケイドとは、いわば現代における「壁」=システム=貨幣と情報のネットワークそのものだ。リトル・ピープルの時代を迎え、いったん断絶した「壁」と「卵」、(ゲーム)システムとプレイヤーは、ここにおいて再び接続されたのだ。そしてその代わりに物語を失った(放棄した)のだ。
自らをシステムそれ自体と化すことでその制御(コミット)を試み、そしてアイデンティティをデータベースの海に依存することで物語をもってそれを記述することを放棄する----それが、不可避に「(小さな)父」として機能してしまう仮面ライダーたちが10年の時間(ディケイド)を通してたどり着いたひとつの回答だった。

p.352「
「ビギンズナイト」には明らかに仮面ライダーディケイドをモデルにした「怪人」が登場する。ダミー・ドーパントと呼ばれるその怪人は、その名の通り、そしてまるでディケイドのようにあらゆる他の登場人物に擬態する能力を有している。そのダミー・ドーパントは矮小な人物として描かれ、劇中にてヒロインから他人のマネばかりをしていて格好悪いとまで罵倒される。これは事実上の『W』の制作陣による『ディケイド』批判だ。このことからも明らかなように、『W』は確信犯的に『ディケイド』のアンチテーゼとして設計されている。

p.355「
ビッグ・ブラザーという疑似人格を装うことがなくなった巨大なシステムは、非物語的で非人格的なアーキテクチャ(環境)として世界をひとつのゲームボードの上に統合した。ゲームボードとは貨幣と情報のグローバルなネットワークのことだ。そして矮小な父=リトル・ピープルたちはゲームボードの上で、究極的には自己目的化したコミュニケーション=ゲームに興じることになる。無限に拡張を続けるゲームへのコミットは不可避で、ゲームボードの外部は存在しない。
外部を喪った世界で、小さな父=リトル・ピープルたちが永遠にゲーム=自己目的化したコミュニケーションを繰り返す----平成「仮面ライダー」シリーズは正義なき時代に正義を描かざるを得ないその商業的要請に正面から応えたがゆえに、この新しい世界を深く、鋭く描き出すことに成功したと言えるだろう。市場の無意識のもたらす力は、無数の人びとの欲望の集積が生む力は、ときに偉大な作家の自意識を凌駕する。

p.361-362「
世界はもはや革命では変化しない。この世界を受け入れ、徹底して内在し、ハッキングすることでしか更新されない。そのために必要なのは、存在し得ない<外部>に祈ることではあり得ない。ただ深く、ひたすらにこの新しい世界の<内部>に<潜る>ことなのだ。
革命からハッキングへ----貨幣と情報のネットワークの<内部>にこそ、この終わりのないゲームを受け止めながら超えていく想像力は渦巻いている。