読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』

books

戦争が遺したもの

戦争が遺したもの


大学生の頃、鶴見俊輔さんの本は本当によく読んだ。AERAムックの「哲学がわかる」というシリーズで、百科全書という言葉と共に紹介されていた(ように記憶している)。哲学にすごく興味はあったけど、細かいことや小難しいことをぐるぐる考えるよりも、もっと直近で役に立ちそうなのを探していた僕にとっては、ものすごく等身大な所があって、日常を考え、ベ平連の運動などにも参加していて、そういうフットワークの軽さが魅力的だったのです。
小熊英二さんもうちの大学にちょうど着任されたところだったので、「現代思想論」とかも履修したし、それにプラス上野千鶴子でしょ?これはおもしろそうだ…ということで読んだ。三世代、おもしろい対話でした。
僕は、平和教育をやりたいと思って教育業界に身を置いているわけですけど、そのベースになっているのはアメリカに1ヶ月間行ったサマースクール。そのときに、「対話することで人の繋がりができて、結局それだけが戦争を止める力を持っているんじゃないか」と思ったのが、今の自分のベースになってます。この本の中で、鶴見さんが同じようなことをおっしゃってて、「ああ、そうそう!」と大いに納得しながら読みました。

鶴見 私は、マスとしての国家とか世代には、期待しないんだ。私が自分でずっと持っているパトリオティズムの対象は、もっと小さいものなんだよ。それは日本にかぎらず、世界中にそういう場があるんだ。
たとえば留学時代の私を泊めてくれたアメリカの家庭だよね。私はアメリカの国家には批判的だけれど、彼らへのパトリオティズムがあるんだよ。そういう場が、世界中にポツン、ポツンとあるわけだ。それは領土っていうのとは、あまり関係ないよね。(p.392)

またがんばれそうだ。うん、がんばろう。
以下、メモ。

p.19「
鶴見 これは、これから話す歴史の見方でも、重要なんだ。一番病の人は、歴史の評価でも、はっきりした基準があると思っている。歴史の進歩があるとか、民本主義より社会主義が偉いとか、そういったものがね。そういう基準で、「これこれの点がこの人物の限界であった」とかいって、歴史上のできごとや人物を、今の立場から採点しちゃうんだよ。
そういうふうにならないためには、日付のある判断というのが、かえって重要だと思うんです。明治五年なら明治五年で、このときはこういうふうに、ここまで自力で考えた、とみなすんです。ある進歩の基準があって、いまからみればこれが当時の限界だ、とかいうんじゃなくてね。一年生より二年生のほうが偉いとかいう発想じゃなくて、それぞれの時点でどんなふうに考えたか、ということなんだ。
そういう日付のある判断が、かえって未来を開くという逆説的な関係があるんだ。日付のある判断というのは、これが当時の限界だったと評価するんじゃなくて、ここでこれだけ考えられたのか、と考える。そうしたら今度は、その後に進んだのとは別の可能性や方向があったんじゃないか、と考えられるわけでしょう。その後に実現した一つのものが、進歩とは限らないわけで、もっと別の可能性があったということがわかる。そうでなきゃ、思想史と言えないんだよね。私が丸山眞男さんに感心するのは、そういうことがわかっている人だったからだ。
日本のいろんな学問は、歴史学でもなんでも、そういうことがわかっていないと思う。歳が進むごとに進歩しているという、前提を持っている。

p.374「
上野 ベ平連は、のちの運動の原則をつくったところがありますよね。私が記憶しているベ平連の三原則というのは、(1)やりたい者がやる、やりたくない者はやらない、(2)やりたい者はやりたくない者を強制しない、(3)やりたくない者はやりたい者の足をひっぱらない、というもので、単純でいながらたいへんよくできた原則です。

p.392「
小熊 領土のある国家とか、伝統的に存在する共同体とかへの愛着ではないんですね。しかし実際のヤクザの親分-子分のつながりでもなくて、一人の人間としての信頼関係。
鶴見 そう。親分-子分ではないね。子どものときからそうだった。
小熊 それなら、一種の同志愛でしょう。パトリオティズムというよりは、fraternityに近いんじゃないですか。フランス革命の「自由・平等・友愛」の「リベルテ・エガリテ・フラテルニテ」でいうフラテルニテ。
上野 私にはそんな言葉はぴんとこないですね。それよりは、「縁」とか「知己」と呼びたい。
小熊 フラテルニテというと、共通の普遍的原理のもとに同志愛を築くという感じだから、少しちがいますか。まあ名称や分類は、どうでもいいんでしょうが。
鶴見 私は、マスとしての国家とか世代には、期待しないんだ。私が自分でずっと持っているパトリオティズムの対象は、もっと小さいものなんだよ。それは日本にかぎらず、世界中にそういう場があるんだ。
たとえば留学時代の私を泊めてくれたアメリカの家庭だよね。私はアメリカの国家には批判的だけれど、彼らへのパトリオティズムがあるんだよ。そういう場が、世界中にポツン、ポツンとあるわけだ。それは領土っていうのとは、あまり関係ないよね。