苅谷剛彦『学力と階層 教育の綻びをどう修正するか』

学力と階層 教育の綻びをどう修正するか

学力と階層 教育の綻びをどう修正するか


学力と階層をテーマにした勉強会のために、読んだ。家庭環境と学力にどんな相関関係があるのか、というのをデータで検証していく。例えば:

「家の人はテレビでニュース番組を見る」「家の人が手作りのお菓子を作ってくれる」「小さいとき、家の人に絵本を読んでもらった」「家の人に博物館や美術館に連れていってもらったことがある」「家にはコンピュータがある」といった要素で、家庭の文化的環境を示し、文化的階層グループを構成し、学習意欲、学習行動、学習の成果としての学力テストの結果を比較。(p.28-29)

文化的階層グループによって違っている、というのはとてもわかる。この文化的階層(が、あると仮定して)の、下層の方を引き上げることをしない限り、国としての浮上は難しいのではないかなあ、と思っています。そのために何ができるか。そこを考える必要がある。
以下メモ。

p.14「
問題は、教育のどのような面で格差が拡大するかである。それというのも、21世紀型の経済社会においては、知識技術の陳腐化がスピードアップし、それに対応できる能力の形成が問われるようになるからである。「自ら学び、自ら考える力」----教育改革でいわれる「生きる力」は、変化の激しい時代にあって、詰め込まれた知識以上に重要である。いやそうした知識を使いこなし、さらに足りない知識や情報が何かを判断し、見つけ出し、獲得する能力として、「学習能力」が問われるようになる。
その意味で、21世紀型の知識経済の下で、「人的資本」の内容が、獲得される知識のストックから、知識獲得のためのスキルへと変わりつつあるといってもよい。そうした学習能力を核とした人的資本を「学習資本」と呼べば、現代はまさに学習資本主義の時代である。

p.17-18
「グループ学習の時にはまとめ役になることが多い」:階層上位グループ=45.2%、中位=29.5%、下位=30.4%
#学力だけでなく、こうした「生きる力」に近いものも含めて、階層差が現れている。

p.21「
もう一つの重要な視点(※前で述べられているのは、教育行政の資源の再発見についての視点)は、資源配分の優先順位である。フェアで活力のある経済社会を作ろうとするなら、あまりに早い段階で学習から降りてしまう子どもたちが、特定の社会階層に偏って出現するのは、望ましくない。公正さを維持するためにも、義務教育段階では、そうした格差をできるだけ縮小するための手だてが必要だ。家系の苦しい家庭ほど、塾などにも頼れない。そういう子どもの多い地域の学校には、優れた教員を加配するなど、これまで以上に「下に手厚い」支援が必要だ。それをしっかりやった上で、「上を伸ばす」教育に資源投下をする。この優先順位を間違えると、子どもの早い時期から格差が拡大する社会になってしまう。
この問題を解決しないと、十分な学習資本を持たない若者が大量に社会に放り出されることになる。

p.23「
仮に、奨学金制度や授業料の無償化などの経済的支援によって、高等教育を受ける際の直接的な経済的障壁が取りのぞかれたとしよう。たとえこのような政策がとられても、依然として、高等教育に入学できるチャンスを決める学業達成(日本の教育界での慣例にならい、「学力」、あるいはやや皮肉を込めて「受験学力」と呼んでもいいだろう)に階層差が見られるとしたら、経済的な障壁を取りのぞくだけでは高等教育機会の平等化は実現できない。学業達成を媒介とした出身階層の影響がなお存在するからである。

p.28-29
「家の人はテレビでニュース番組を見る」「家の人が手作りのお菓子を作ってくれる」「小さいとき、家の人に絵本を読んでもらった」「家の人に博物館や美術館に連れていってもらったことがある」「家にはコンピュータがある」といった要素で、家庭の文化的環境を示し、文化的階層グループを構成し、学習意欲、学習行動、学習の成果としての学力テストの結果を比較。
→小学校からすでに家庭の階層格差が現れている。

p.70「
メリトクラシーの定式によれば、メリットとは、能力と努力という二つの構成要素からなる(ヤング 1958、竹内 1995)。しかも、メリトクラシーは、しばしば業績主義と言い換えられる。その場合、社会的選抜において、個人の属性よりも、能力と努力からなるメリットが重視されることをもって、業績原理が支配的であると見なし、そうした社会を「メリトクラシー」と呼ぶ。1960年代まで教育機会の拡大が、社会の平等化を推し進めるといった楽観論が成立できたのも、教育を通じた選抜がメリットを基準としたものであり、それゆえ、出身階層の直接的な影響を被らないことを見込んでいたからにほかならない。


ただし、メリトクラシーを通じて社会の平等が達成されるためには、能力と努力のいずれもが、個人の属性から影響を受けない必要がある。が、国の内外を問わず、教育達成と出身階層には関係が見られているのが現状。

p.254「
人的資本の自己増殖は、こうして、生涯にわたり学習が価値づけられる学習の市場化のメカニズムを通じて達成される。極端にいえば、学びたいから学ぶのではない。学ばなければ生き残れないから学ぶ。それが、市場競争型の生涯学習社会である。この仕組みの下で、利口な人的資本家が、人的資本を自ら増殖させ続けるメカニズムが作動する。しかも、彼ら・彼女らの一部は、学ぶことを苦痛と感じず、楽しみに変える高等な学習能力(「学ぶ楽しみ」)も得ているのである。

p.270-272
フィンランドのマトリキュレーション試験(高校卒業資格認定試験)
<歴史と公民>
工業化の進展に伴って、子どもとその生活環境がどのように変化していったかについて論ぜよ。

<物理>
凹面鏡の焦点距離、および格子解析における線間の距離はどのようにして決定することができるか適切な図を用いて説明せよ。

<チリ>
スカンジナビア半島が永久凍土で覆われている事実について説明せよ。

(出典:『大学入試における総合試験の国際比較』藤井光昭・柳井晴夫・荒井克弘編著、多賀出版、2002年)

p.299-300「
「自分らしさ」を探そうとしながら、迷路に迷い込んでしまう高校生を作り出している一つの要因は、この10年ほどの日本の教育界の個性重視の教育にある、といえそうだ。もちろん、その背後には、日本社会全体の「自立なき自己」を生み続ける時代背景があるのだが、その説明は、後に譲ろう。
高校の進路指導では、さかんに「自己理解」に基づく、「自分のやりたいこと」「自分に向いた職業=適職」探しが奨励されている。文部科学省の学習指導要領には、「生徒が自らの在り方生き方を考え、主体的に進路を選択することができるよう、学校の教育活動全体を通じ、計画的、組織的な進路指導を行うこと」との規定がある。要するに、「自分らしさ」を見つけ、それをもとに自分からすすんで、自分らしさの発揮できる進路を選ぶように育てよう、ということだろう。教育界での別のはやり言葉に置き換えれば、「自己実現」のための進路選択、ということだ。
しかも、生徒の「自分らしさ」を尊重する進路指導は、個性重視の教育の隆盛に後押しされて、疑われることのない望ましい指導方針となっている。高校の進路指導担当教師を対象とした聞き取り調査でも、「自己理解」や「自分探し」を中心とした指導を行なっているという話がたびたび聞かれた。「昔は、自分とは一体何なのか、っていうところまで踏み込まずに、やってましたけども、今はそこから、そういうふうに、生徒一人一人に、まあ、自己形成なり、自分とは何か、アイデンティティを見つめてもらうようなところから始まんないと、進路決定できないと、進路指導になっていかない、っていうようなものがあります」といいうのである。進路指導の雑誌や手引きなどを見ても、「自己探求」や「自己実現」といった表現が目につく。「自己〜」は今や教育界の流行語である。
このような学校側の姿勢は、生徒にも伝わっているようだ。大都市圏の普通科高校11校(中学校の成績がクラスで比較的下位の生徒が多数を占める学校を選んだ)の3年生、1453人を対象に2002年1〜2月に行った調査によれば、「今の時代は自分らしさが重視されている」と思うかどうかという質問に、「そう思う」ないし「まあそう思う」と答えた生徒は、全体の65%に及んだ。また、「学校でも自分らしさや個性が大事だと言われる」と思う生徒も64%となる。3分の2の生徒たちは、今を「自分らしさ」の時代だ見ているのだ。
その一方で、「自分らしさについて考えてもきりがない」と思う生徒も67%いる。自分らしさが大事だといわれても、自分らしさをつかむことは容易ではない。それがすぐにわかるもんどえはないから、考えてもきりがないと思えるのだろう。「自分らしさ」探しが求められる一方で、そもそもその要求自体が曖昧で、具体性を欠いている。それゆえ、自分探しの宙吊り状態が生じるのだろう。