石原千秋『国語教科書の思想』

国語教科書の思想 (ちくま新書)

国語教科書の思想 (ちくま新書)


国語教科書の隠されたカリキュラムを解き明かしていく。おもしろい。小学校の国語教科書で言っているテーマはたった2つ、「自然に帰ろう」「他者と出会おう」だけだ、というのはおもしろい。国語教育が道徳教育になっちゃってるっていうのも納得。もっともっと毒のある作品を読ませたりしたらいいのにね。
以下、メモ。

p.27-28「
どこかに道徳的な教訓が含まれていることが、「定番教材」の条件なのである。ただ「読んで楽しい」だけでは、授業にならないのである。国語教育は「正しい生き方」を教える、「教訓」が付き物の「お説教」臭い科目でなければならないらしい。
国語で道徳を教えるなとは言わない。しかし、道徳だけを教えるのでは、いかにも堅苦しい。たとえば、主人公の「心情」を説明しなさいと言われれば、人間の心の動きは自由だから、それこそ読者の数だけ「正解」があっていいはずだ。しかし、学校空間ではなぜか「正解」が一つに決められてしまう。それは、道徳的に「正しい」心の動き以外は「まちがい」だとされるからである。
教師も大人も「国語は道徳だ」とはっきりとは教えてくれない。それでも、多くの児童や生徒はしだいに「国語は道徳だ」という法則を身に付ける。そうしなければ学校空間では生きていけないからだ。それが「国語ができる」ことなのである。そして、その代償として「国語はお説教臭くてつまらない科目」になってしまうのだ。あるいは、「国語は心を一つに決める奇妙な科目」になってしまうのだ。

p.43「
PISAの「読解力」試験をいち早く分析した国語教育学者の浜本純逸は「二〇〇〇年長さの問題の傾向から考えると、単に「読解力が低下した、読解力の指導を強化せよ」というだけでは、学力問題の解決にはならない。従来の「読解指導」を強化すると、PISAではますます得点が下がっていくであろう」と的確に指摘している(「考える力と表現する力を育てる国語教育」『月刊国語教育研究』二〇〇四. 五)。
PISAの「読解力」試験が求めているのは、端的に言えば批評精神なのだ。PISAの「読解力」試験が求めているのは、他人を遠慮なく批評し(「批評」は単なる「批判」でもないし、「非難」でもない)、常に他人とは違った意見を言うことができる個性なのである。

p.53「
日本の一五歳が最もできなかったのは、最後の問七である。「贈り物」という奇妙な物語の最後の一文は「ポーチの上には、かじられたハムが白い骨になって残っていただけだった」と結ばれている。これに関して、設問はこう聞くのだ。

「贈り物」の最後の文が、このような文で終わるのは適切だと思いますか。最後の文が物語の内容とどのように関連しているかを示して、あなたの答えを説明しなさい。

物語を批評的に読みなさいという趣旨の設問である。これも、日本の国語教育ではまずお目にかかれない設問だ。日本の国語教育は与えられた文章を「ありがたいもの」として、徹底的に受け身の立場に立って「読解」することだけが行われているからである。

p.55
PISAの求める「読解力」(原文ではReadingではなく、Reading Literacyが使われている)
1. 文章や図や表から情報を読み解く力。
2. 文章を批評的に読む力。
3. これらを記述する力。

p.58-60
新しい「国語」の立ち上げを提案。
1.リテラシ
 文章や図、表からニュートラルな情報を正確に読み取る力を育てる。採点基準は「正確さ」(道徳的な正しさではない)
 作文もこの科目に含まれる。自分の意見をきちんと表明できているか否か、が評価の対象。
2.文学
 文学的文章をできる限り「批評」的に読み、自分の「読み」をきちんと記述できるよう育てる。
 「批評」とは、テクストから根拠を引き出すことのできる「読み」や、自分の用いた枠組みについて言及できるような「読み」のこと。
 (根拠のない意見や感想ではない)

p.64「
とりあえずできることは、少なくとも二通りには読めるような小説教材を選ぶことである。その上で、二通りに読める技術を教えることができれば、とりあえずは良しとしなければならないだろう。

p.69「
文学研究も流行に流されやすいものだが、そうすることによって、文学テクストの読みの可能性を広げてきた。
その中で、国語教育はひたすらに道徳的な読みだけを鍛えてきた。それを唯一の「正しい読み」だと教え込んできたことには何度でも異議申し立てをしたいが、その道徳的な読みの強度には敬意を払いたいと思う。いくらでもある読みの中で、たった一つの読みをここまで鍛えてきた持続性は文学研究うにはないだろうからである。ただし、そのために国語教育は、本当に文学を自由に読もうとした子供たちを「国語のできない子供」に仕立て上げてきた。だから、この「敬意」にはいくぶんかの「皮肉」が込められている。

p.70-71「
刺激的な言い方をすれば、グローバル・スタンダードの時代にあっては「個性」が「商品」となる。したがって、個性を「計量」し、個性に「値段」をつけるために、入試国語にも積極的に文学を出題すべきだと考えている。出題校が採点の基準を自主的に「好み」で決める勇気をもつならば、「文学」は単純な入試対策ができにくい科目になるだろう。
事実、ある意味で最も塾が強力に介入し、最も長期間の受験勉強を必要とする中学入試においては、個性的で優秀な子供だけを入学させたい男子上位校は、ここ数年の間に評論よりも小説からの出題にシフトしてきているのである(拙著『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002.10)。この事実は、文学が個性と能力を計る最も優れた器であることを証している。逆に言えば、文学が個性と能力を鍛える最も優れた器であることを証しているということになる。

p.74
小学国語で扱われるテーマ(あるいはメッセージ)は、大きく分けると2つしかない。
1.自然に帰ろう
2.他者と出会おう
=これが戦後の国語教育が求める「人格」である

p.130「
国語でのディベートはあくまで練習であり、ゲームである。だからこそ、現実への配慮をせずに、純粋に思考力を鍛えることができる。そうであれば、議論を徹底するためには、簡単には答えの出ない「哲学」的な問いをぶつけてみるべきだろう。その方が、子供たちは「道徳」や他人の目を気にせず真剣にディベートに参加できるはずだ。子供の知的好奇心を、侮ってはいけない。教室はもっぱら道徳を教え込む場としてあるのではなく、知的好奇心を満足させる場でもなければならないだろう。

p.132「
この教科書の全体には具体的な他者の問題を考えさせる教材が極端に少ない。ほとんどないというのが、正味のところだろう。国語がになっていた「成長」という過程が、具体的な他者の理解から情報発信の技術の習得に置き換えられつつある様相を見て取ることができる。その情報発信教材がまだ十分に練られていないことは、見てきたとおりである。しかも、私たちはメディアを介在させるような抽象的な他者から、触れれば血が流れるような身近で具体的な他者まで、さまざまなレベルの他者と日々生活している。繰り返すが、そのことに気づかせることができないような情報教育は、フーコーの言う権力に「従順な身体」を創りだすだけだろう。なぜなら、「他者への配慮」を「編集の技術」として学んでしまうとき、自分が「権力」を行使していることにも、「公」という「権力」に従っていることにも、気づくことができないからである。

p.154「
教育実習生の研究授業で、実際に生徒がスピーチを行う授業を見学したことがあったが、四十人近い生徒が慌ただしく教壇に出向いては瞬間芸のような「スピーチ」を繰り返していく様子を見て、これでは生徒にとっては「義務」以外の何ものでもなく、遊びにさえならないだろうと、暗澹たる気持ちになったものだ。自己表現にもなっていないし、言葉の学習にもなっていないのだ。それは、教育実習生だからというだけではないと思った。繰り返すが、とにかく慌ただしすぎるのである。こういうアラカルト方式ではなく、一つの形式をじっくり学習するスタイルに変える必要がある。