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小川仁志『ヘーゲルを総理大臣に!』

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ヘーゲルを総理大臣に!

ヘーゲルを総理大臣に!


表紙の感じから、『もしドラ』と同じ系統?と勘違いしていたのですが、どうやら違ったみたい。前半で、シミュレーション的に「こんな問題があるじゃない」というのをジレンマ状態で述べておき、後半でヘーゲルの思想をそれにあたがうとどんな感じになるのか、ということを述べていく。ヘーゲルって何だか国家主義者のイメージが強かったのと、とにかく「弁証法!」っていう哲学者だと思っていたのだけど、この本で紹介されているのは家族、国家、社会、職業団体、仲間集団、というコミュニティの側面が多く書かれていて新鮮だったな。
「公共性をどうやって伸ばすか」というのは、自分で作るカリキュラムの中にいれこみたいと思っていることなので、もうちょっとストーリー形式を取り入れて、学校で使えるような形にできないか、考えてみようと思う。
以下、メモ。

p.170「
ただでさえ、市場をはじめとした市民社会の人間関係は打算的なものです。そんな中で人々の解体をつなぎとめる役割を担うのは、愛溢れる家族しかないのです。家族は子どもに倫理としての愛を与え、身につけさせる。愛を覚えて成人した子どもは、自分もまた愛ある家族をもつ。こうして愛溢れる家族が再生産されていくことが望ましい姿だといえます。

p.171
どうして子どもに教育の機会を与えないといけないのか?
=市民社会の成員を育てるため。家族は子どもを育てると一つの役割を終えます。

p.172「
次の世代を育てることは親だけの使命ではなく、社会の使命なのです。その社会の使命を家族が担っているというわけです。だから国家もそれを義務にします。立派な国家の担い手を育成してもらわないことには、国家自体が廃れてしまいますから。
ヘーゲルも、このようなことを主張しています。よく家族の解体という表現が使われますが、家族は立派な市民社会の成員を育て上げることで、解体するのです。そして、また新たな家族が生まれます。

p.177-178「
人は市民社会で生活します。そこで共同で何かをやることによって、自我を抑え、他者に配慮しつつ、目的を達成することを覚えるのです。具体的には会社や地域社会においてでしょうか。ヘーゲルも会社であり生活の場でもある「職業団体」において、人は利己的なものを克服し、他者に配慮することを覚えるといいます。
職業団体だけではありません。ヘーゲルは「仲間集団」という表現も使っていますが、これは職業団体を越えたあらゆる自治的な集団のことです。そういう諸集団において、人は公共性を学ぶのです。
結局、公共性とは、単にみんなが共有する場や問題領域という意味を越えて、そこに自分がどうかかわるべきかという規範的な意味合いまで含んだ概念なのです。

p.184「
国家が大きく、強くなることを恐れる人がいるのは、政治権力としての国家ばかりを想定しているからでしょう。そうではなくて、共同体としての国家を想定すれば、そこは公共性に溢れた国民が会するアゴラ(公共の広場)と化すのです。あたかも古代ギリシャのポリスで生活する人たちが政治的生活を送っていたように。
とするならば、その国家は私たちの自由を制限するどころか、むしろ公共心によって恣意的なものを排除し、真の自由を実現してくれる場となりうるのです。もちろんその主体は私たち自身です。これがヘーゲルのいう共同体としての国家の理想像だといえます。
先ほどヘーゲルは悪しき国家主義の権化だと誤解されかねないという話をしました。実際彼は誤解され続けてきたのです。あたかも政治権力としての国家が絶対的な力をもち、国民の自由をコントロールしているかのような理解をされてきました。しかしそうした理解は、ヘーゲルの国家概念に対する誤解に起因しているのです。