西部邁『保守思想のための39章』

保守思想のための39章 (ちくま新書)

保守思想のための39章 (ちくま新書)


「保守思想」は守旧とは違う、ということをこないだ社長が話していたので、改めて「保守思想って何さ?」と思い、読んでみた。僕の中でのけっこう保守思想のシンボルは西部さん。これは大学時代の友人の影響が強い。
しかし…西部さんの書き言葉は難しいな…。しゃべっている言葉の方がすんなり入ってくる。これは受け手である僕のスキルの問題でしょうが。
以下、メモ。

p.112-113「
「暗黙の全員一致」が議論の両端にあると想定するのは楽観的にすぎるであろうか。近年、ディベイト(論争)というものがもてはやされている。そこで、異なった前提と異なった結論を有しているものたちが、果てしなく相手を攻撃している。ディベイトの必要が最初に唱えられたのはアメリカにおいてであったが、あの個人主義の国アメリカにあってすら、それは「相手の前提や結論をあえて採用してみる」ということなのであった。
つまり「立場の互換(インターチェンジ)」をやってみることによって、当初のおのれの前提や結論を疑る必要がある、ということである。少なくとも他者理解の可能性があるかぎり、ディベイトにおいても、異なった前提・結論を調和させるなり総合するなりする知恵への欲求が参加者の全員に潜在しているとみてよいであろう。その意味で、多数決が顕在しうるのは、全員一致が潜在しているからだといってよい。

p.114「
アダム・スミスも、国民の道徳感情を論じて、シムパシー(共感)が重要であるといい、その重要なものの達成を秤量するにはイムパーシャル・インスペクテーター(公平な観察者)が存在しなければならぬといった。それは理神論を応用したことの結果というべきであろうが----スミスが歴史や慣習のことに関心を払ったスコットランド啓蒙思想に属することを思えば----「共感」にせよ「公平な観察者」にせよ、国民が潜在的に共有するはずの議論の作法のことだと解釈することも可能なのである。

p.189「
文化なき文明が「貨幣と知性」を歯車として動くことをシュペングラーは見抜いている。そしてついに「根本的な無」としての大衆が「あらゆる形式、あらゆる品等の差別や秩序立てられた所有や秩序立てられた知識を憎悪し迫害する」ことになるとまでいう。技術知と組織体との勝利とはこうしたものである。彼の書『西洋の没落』は、実は、「文化なき文明」が辿りつくであろう哀れな末路を運命論的に描いたものなのだ。そして保守思想家たちのほとんどすべてが、口に出さずとも、それに似た文明観を抱いてきたのである。

p.196「
諭吉の「公智と私智」そして「公徳と私徳」の区別は今も有効と思われる。私智は「物質の理」についての知識であり、公智は「人事の道」についての知識である。また私徳は「内心における受動の徳」をさし、公徳は「交際における能動の徳」をさす。諭吉は知と徳の双方における「公的なもの」の寂弱を嘆き、その回復なしには「独立」も「文明」もありえないと断じたのである。したがって、たとえば戦後日本は、彼の言い方からすれば、非独立と反文明の見本ということになるのであろう。