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東浩紀・宮台真司『父として考える』

父として考える (生活人新書)

父として考える (生活人新書)


「父として」というタイトルに惹かれて購入。宮台さんも東さんもお仕事にとても興味がある言論者なので、楽しかった。おふたりとも、子どもとの時間を通じて考えたこととか、子どものことを考えての社会を見透す目だったりとかが、本当におもしろい。お薦め。父としての優しい視線が微笑ましいっす。
以下、メモ。

p.11(東)「
あとは、10年後あたりにこの本を発見した娘が、ぼくを軽蔑しないことを祈るばかりだ。
いや、本当は、娘が病気にも事故にも遭わずに10年後にもいまだぼくの傍にいて、この本を発見してくれるようなら、たとえ軽蔑されてもぼくは十分に幸せなのだろうけれども。


p.102(宮台)「
こうした公的活動が織り成す領域がいわゆる「新しい公共」です。「新しい公共」に参加するには時間が必要で、それには就業時間短縮が必要です。そうやって相互扶助が分厚くなれば「貧しくても楽しい我が家」「貧しくても楽しい地域」になります。これ以外の未来構想はありえないんですよ。

p.102(東)「
おっしゃる通りです。
つけ加えれば、そもそも「公的」という言葉のイメージが貧しすぎる。本当は子育てなんて、準公的どころか公的活動そのものです。子どもがいなければ、そもそも社会が存在しないのだから。それがなぜか、「お前が好き勝手に子どもを育てているだけだろ」という歪な感覚が、若い世代を中心に蔓延している。それは変えていかなければならない。


p.110(宮台)
PISAやTIMSSの順位が下がっている原因:
「日本がグループワークをしなくなったからだ」(教育社会学者・藤田英典

グループワークは、中位値よりも下の子を上げる働きをします。つまり全員100人だとすると、50番目よりも下の子の成績を上げるんです。


p.164(東)「
親は子どもにじつにたくさんのことを教えます。けれども、子どもが本当に学ぶのは、僕が教えている内容ではなくて、僕の形式、僕の無意識なんですね。そしてそれは親自身にとってはもっとも見えないものであったりする。だからこそ逆に、親にとっては子どもは勝手に育っていくようにしか見えない。そこでは本当は「親の無意識と子どもの無意識の共同作業」が起きているのだと思います。


p.166-167(宮台)「
近代公教育とはそもそも、家族ごとに、あるいは生まれによって異なるリソースの多寡を中和することに役立つ、共有剤のことでしょう。リソースの多寡が、知識や技能から、コミュニケーション能力にシフトするのだとしても、やはりそこにある程度機体するしかないことはたしかです。
家族ごとにコミュニケーション能力を養うのに役立つリソースにちがいがあって当然ですが、社会でコミュニケーション能力の多寡が重要になればなるほど、従来の学校教育がそれを補完しないのであれば、今後の学校教育がそれを補完できるものに変わる必要が出てきます。つまり、感染体験の多寡を補完できるようなものに変わる必要があるんです。


p.168(東)「
山本さん(山本理顕)が教えてくれたのですが、日本では「地域」という言葉をよく使うけれど、その実態として、日本の制度の中で近いものは「学区」ぐらいしかないらしいのですね。明治以降、地名や町名にはほとんどなんの意味もなくて、学区だけがかろうじてコミュニティとして機能してきた。そして続けて藤村さん(藤村龍至)が指摘したのですが、実際に日本の建築史を見ると、コミュニティをつくるときはまず学校をつくるのだと。ヨーロッパならば教会をつくるときに、日本では学校をつくる。前近代において共同体の中核だった寺社の機能が失われたあと、日本では学校は、教育機関であることに加え、共同体の核としての機能も果たしてきたわけです。


p.188(宮台)「
バックドアは年齡とともに自動的に鍵がかかるか、バックドアから出てももはや荒野しか広がっていない。「加齢による市場価値激減問題」を意識せずに子どもを育ててしまった親たちに問題があります。


p.219(宮台)「
複数のコミュニティへの所属は大切です。ある島宇宙ではトップだけど、別の島宇宙だとボトム。自分はできると思っていても、別のグループに行けばまったくできない。「世の中そんなものだよ」と教える絶好のチャンスです。そうしたら彼女の最近の口癖は「世の中そんなもんだよね」なんですよ。


p.231(宮台)「
今後もずっと組織人に要求される基本資質は変わらないし、信頼できる私的な絆を結ぶのに要求される基本資質も変わらない。オフラインでの地位欠落(口ベタ)をオンラインで地位代替(ツイート達者)できるのは人格システムにおいての話で、社会システムにおいてはオフラインの欠落をオンラインでは埋められない。「現実」にダメなやつが「ネット」で回復できるのは自意識においてだけで、社会の枢要な領域では「現実」にダメなやつは「ネット」でどうあろうが永久にダメだということです。


p.247(宮台)「
政治的には失敗が二点ある。第一に、本来必要なのは、どのみち中国のような新興国に追いつかれる産業から、遠い将来にわたって新興国が追いつけないか追いつく動機を持たない産業に、比較優位の分野をシフトする産業構造改革なのに、それができなかったこと。
第二に、そうしたシフトを経てさえ新興国の発展ゆえに外貨獲得が容易でなくなるのはどの先進国でも同じで、だから「大きな政府」でなく「小さな政府と、大きな社会」でやるしかないのだが、「大きな社会」(相互扶助的に個人を包摂する社会)の樹立に程遠いこと。


p.251(宮台)「
こういう馬鹿な大人たちによって教育がなされた場合、(1)相互扶助的に個人を包摂する、(2)自己決定的な共同体たちの、(3)共和から成り立つ社会は、樹立できるのか。つまりそうした社会を構成する人材を生み出せるのか。残念だが絶望的だと言う他ないだろう。
僕は、こうした「(子供たちへの)教育を通じた社会設計」に必要な大人たちの人材を生み出すべく、「社会設計を通じた(大人たちへの)教育」を使って親業教育をなすべきだと考えている。成育環境を立て直さずに、教員や親が頑張っても、多くは徒労である。