芹沢一也・荻上チキ『日本思想という病』

日本思想という病(SYNODOS READINGS)

日本思想という病(SYNODOS READINGS)


メルマガを絶賛積ん読中(残念だ…)なSynodosの本。中島岳志片山杜秀高田里惠子、植村和秀、田中秀臣の5人がそれぞれの観点から日本思想を語る。興味があったのは、「保守」という概念についての部分。「保守」は「守旧」ではない、ということ。日本の政治状況が何だか残念なことになっている今、こういうさまざまな思想をインプットしておきたいな、と思うのです。
以下、メモ。

p.23
保守は「復古」という立場とは違う。

もちろん、保守の中には、「古くから続くもの」の中に、歴史の潜在的英知を見出すという側面があります。しかし、単純に「古い時代に戻ればいい」なんてことを、保守思想では主張できるはずがありません。
なぜならば、古い時代の社会も、当然のことながら不完全な人間が構成してきたものであり、完全な理想社会などではなかったからです。ですから、「古きよき時代に戻ればいい」なんて単純な理屈を、保守思想では唱えることはできません。「古きよき」とされる時代にも、さまざまな課題が山積していただろうことを、保守は冷静に凝視します。
つまり、保守は「反動」でも「復古」でもありません。社会変化に対応しながら、「保守するための改革」=「漸進的改革」を進めていくのが保守の姿勢です。この点は、保守を理解する際に、非常に重要な要素です。

p.24「
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与え給え。
(Reinhold Niebuhr ニーバー)

p.43 中島岳志
保守にとって「熱狂」は、本来避けるべきものです。なぜならば、熱狂が起こる背景には、他の価値を理解しようとせず、特定の価値を頑なに絶対視する「偏向」があるからです。この偏向には、自らの能力への過信が常に付きまといます。自分こそが、絶対的な価値を体現しているのだという驕りこそが、偏向と熱狂を生み出すのです。

p.77
西部邁『保守思想のための39章』(ちくま新書 2002)
保守思想を体系的に理解するために。「伝統の由来」「虚無の深淵」「道徳の微妙」「漸進の知恵」といった39章。

p.217
加藤周一『ある晴れた日に』(岩波現代文庫 2009)
戦争末期の日々を、ひとり静かに絶望していた知識人たちが戦争末期をどのように過ごしたのか、を描いている。

p.227 植村和秀 「
日本国家は明治期から昭和期へと継続しましたが、質的に変わっており、それは成功したがゆえに変わっていくんです。司馬遼太郎の『坂の上の雲』は明治期だから書けるのであって、あれを昭和期で書こうと思ったら、とてもとても難しいですね。人間ドラマではなく、組織の権力闘争になってしまうでしょう。
つまり、明治と昭和は、なんとなくつながっているように思えるんだけれども、実はそこに大きな違いがある、ということです。そして日本の政治的な指導者たちは、手作りの明治国家は上手に運営したものの、成功して大企業級の昭和国家になったら、その運営に失敗してしまったわけです。日本国家が迷走して暴走して、上手にコントロールできなくなって、最後には正面衝突してつぶれかける、というのが昭和戦前期の顛末だったと私は考えています。