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沢木耕太郎『沢木耕太郎ノンフィクションII 有名であれ 無名であれ』

有名であれ無名であれ (沢木耕太郎ノンフィクション)

有名であれ無名であれ (沢木耕太郎ノンフィクション)


沢木耕太郎のノンフィクション全集、2冊目。読みたかった「若き実力者たち」という連載も収められている。中原誠、趙治勲市川海老蔵ら、いま脂の乗り切った人たちの若き頃の話。とても興味深い。それと、元日大全共闘議長の秋田明大(あけひろ)さん。うーん、興味ある。
以下、気になったところをメモ。

p.24

中原誠は極めて平凡な若者である。(略)ただ、彼が世の若者と違っていたのは、自分を平凡だと見極めて、その平凡な器の中に非凡な才能だけを暖めつづけた点である。傑出していたのはその「見極め」である。世の若者は、平凡さを非凡に見せかけようとするが、彼は平凡であることを素直に受け入れていた。たぶん、彼の転載は、その平凡さのなか以外では花開かなかったに相違ない。


p.61

<<あなたの青春、つまらなくない?>>
すると微笑みながら(安達)瞳子が答えた。
<<家元なんて、なりたくてなれるものではない。この世でたったひとりなのよ。とてもラッキーだと思う。たとえ遊べなくても何ということはないわ>>


p.71
秋田明大(あけひろ)が獄中で書いたもの:
「日大から去っていくすべての学友へ。/屈辱感、挫折感を持って日大から去っていかないで欲しい。もし去っていくなら、日大闘争を、ほんの数時間、数日間でも、自己の良心に、人間性に従い闘ったという誇りと勇気を持って去って行って欲しい。そうするなら、君の青春は無駄ではなかったろう。そして、君の第二の人生も、君自身が切り開こうとするなら、必ず君を待っているであろう」


p.129-130
山田洋次監督に)映画監督というものは、いったいどんな瞬間に自分の行為を確かめられるのか、と訊ねたことがある:

自分の場合、と限定して彼は三つの事柄をあげた。ひとつは、共同作業の中でスタッフのひとりひとりが変化していくとき。もうひとつは、観客がヴィヴィッドな反応をするとき。さらにもうひとつは、映画が近代的な経済性を必須のものとしている以上、観客が十分ペイするほど入ったとき。これら三つの瞬間に映画を作るという行為がある充足感を持って確認されるのだ、という。


p.134
海老蔵が襲名後、初めて取り組んだテレビドラマ『春の雪』での濃厚なラブシーン、裸になってほしい、とディレクターが説明すると、海老蔵は沈黙し、しばらくしてやっと<<結構です>>と答えた。

この沈黙の間に、枯れは何を考えていたのか。<<これを演じることで誰かが困りはしないか>>という一事だったという。古い歌舞伎の人が見れば、アッと驚に違いない。その時、演じることを許したといって責められる人はいないか…。

(共演の)吉永小百合はこの海老蔵を知って、<<私たちのように明日どうなろうとかまわない役者とは、背負ってるものの重さが違う>>という印象を持った。確かに、彼の沈黙は、名門に生まれたものが背負わなければならない、「重さ」によるものだったかもしれない。


p.146
海老蔵
<<どうしてイヤイヤでも子役をやらせるか、それが最近少しわかってきました。滲み込ませるためなんですよ。歌舞伎は頭で理解したものより、躰に滲みついたものが役に立つ>>

p.147-148

若さというのは無軌道につながらなければ嘘だし、自分のやりたいことに何も考えず突っ走ることだ、と彼は考えている。しかし、彼は自分のやりたいことに突っ走るのではなく、やらなければならないものを少しでもやりたいものにしよう、端的にいえば、好きになろうと努めてきた。その意味では、ある種の若さを失っているかもしれないことを、彼は認めている。しかし、自由であるということは、自分の道がまだ見つからない状態でもある。