佐久協『高校生が感動した「論語」』

高校生が感動した「論語」 (祥伝社新書)

高校生が感動した「論語」 (祥伝社新書)


慶應義塾高校で国語・漢文・中国語などを教えられていた先生。実際の授業で論語を題材にしていたそうです。非常におもしろい。論語は必ず授業でやる題材だけども、僕も高校生の頃はそんなに好きじゃなかった。
先生自身が分析している理由がおもしろい(p.9)。曰く:

  1. 弟子の言葉が偉そうで「ウザッタイ」
  2. 人物評や政治抗争や宮廷儀礼を述べた箇所が「ジャマクサイ」
  3. 口語訳だけでは意味が分からず、注を読まないと理解できないので「カッタルイ」

まさしく!これを上手に口語訳して、ときに意訳をしたり意味を付け加えたり、というのが本当にいいと思う。論語を読ませる、というのは、まさしくその内容を読ませたい、ということなはずなので(だよね?)、こうして語りかけることは大事だろうな。
以下、メモ。

p.3
どうして生徒が『論語』につまづくのか?
一 弟子の言葉が偉そうで「ウザッタイ」
二 人物評や政治抗争や宮廷儀礼を述べた箇所が「ジャマクサイ」
三 口語訳だけでは意味が分からず、注を読まないと理解できないので「カッタルイ」


p.111

弟子の冉有が、「先生のご説には大賛成ですが、それを実行するのは、わたしには力不足で出来ません」と言うから、「『出来ない』というのは途中までやって、ぶっ倒れた者が言うセリフだよ。お前のは、『出来ない』でなく、『やらない』の言い訳じゃないか。自分で自分をダメ人間あつかいしているのと同じだぞ」と諭してやったよ。
」(雍也第六−十二)


p.129

出世しないのをグチる前に、出世するに足る実力が備わってないことに気づくべきだね。世間が自分を認めてくれないからとクサらずに、ようし、世間が注目することをやってやろうと発憤するのが先だよ。
」(里仁第四−十四)


p.148

わたしはね、正義の実践者と、不正を憎む者とは、似ているけれども、明白な相異があると思っているんだよ。正義の実践者に関してはつけ加えることはないが、不正を憎む者について一言いっておこう。不正を憎む者も不正が広がるのを防いでいるのだから、正義を行っていることに違いはない。しかし、一日でもいいから他人の不正を責めるというマイナスの情熱を自らの正義を実践するというプラスの情熱に転換してみるといい。そうすれば、異(ちが)いが分かるはずだ。他人の不正を憎むエネルギーを持っているのに、自らの正義を実践するエネルギーがないなんて言う者はおるまいよ。そんな者がいると思うかい?おるまいよ。

(里仁第四−六)