内田樹『街場の教育論』

街場の教育論

街場の教育論


女子大で実際に教育に携わりながらも発言を多くしている内田樹先生の目から見る教育論。おもしろかった。キャリア教育についての考察はまさしく!と思う。

就職活動で、学生たちはそれまで自分たちが「競争」の過程で教わってきたこととはぜんぜん違う基準で選別されるという経験をします。もし「キャリア教育」というものが必要であるとすれば、私は私が今したような話を学生たちに聞かせるのが、いちばん現実的だと思います。労働するとはどういうことで、その場ではどういう種類の人間的資質が評価されるのか。それを教えるのが「キャリア教育」であるなら、私は「キャリア教育」の充実には大賛成です。(p.213)

そうそう。こうして「自分が選ばれない」という事態と、それに対する対応策というかそれにへこたれない姿勢とか気持ち、というものを教えられるカリキュラムを書きたいな、と思う。高等教育だけでなく、初等教育でしたいな。でも、初等教育の先生たちって、あんまりキャリアとかで悩んでないような気がする…。結局、自分がさんざん悩んで、さんざん寄り道して…という体験を持っている先生が教える、というのがいちばん効果があると思うな。
以下、メモ。

p.22

  1. 教育制度は惰性の強い制度であり、簡単には変えることができない。
  2. それゆえ、教育についての議論は過剰に断定的で、非寛容なものになりがちである(私たちがなす議論も含めて)。
  3. 教育制度は一時停止して根本的に補修するということができない。その制度の瑕疵は、「現に瑕疵のある制度」を通じて補正するしかない。
  4. 教育改革の主体は教師たちが担うしかない。人間は批判され、査定され、制約されることでそのパフォーマンスを向上するものでしかなく、支持され、勇気づけられ、自由を保障されることでオーバーアチーブを果たすものである。


p.84
六芸:礼・楽・射・御・書・数の6つ
・今は最後から2つしか学校で教えられていない


p.93
専門領域=「符丁で話が通じる世界」。そこで専門家は育てられる。
しかし、「符丁が通じない相手」とコミュニケーションがとれなければ、専門家は何の役にも立たない。

だから、教養教育と専門教育の2つが並行的になされなくてはならないのです。
教養教育=「自分と共通の言語や共通の価値の度量衡をもたないもの」とのコミュニケーションのやり方を学ぶためのもの。
専門教育=「内輪のパーティ」で、符丁を使って話す仕方を学ぶ。そして次に、これまで符丁で話してきたことを、「符丁が通じない相手」に理解させる。


p.114

きれいに理屈が通っている、すっきりしている先生じゃダメなんです。それでは子どもは育たない。成熟は葛藤を通じて果たされるからです。


p.182

起業をして会社を急成長させた経験のある人間や、危機的状況を乗り越えた経験のある人間ならわかることですけれど、大きな仕事というのは人がもらっている給料分以上の仕事をしなければ決して達成できません。ひとりひとりが自分に期待されている仕事の何倍、何十倍ものオーバー・アチーブをしたときにだけ、集団的なブレークスルーは達成される。そして、オーバー・アチーブというのは絶対にトップ・ダウンでは実現できないものなんです。


p.213

就職活動で、学生たちはそれまで自分たちが「競争」の過程で教わってきたこととはぜんぜん違う基準で選別されるという経験をします。もし「キャリア教育」というものが必要であるとすれば、私は私が今したような話を学生たちに聞かせるのが、いちばん現実的だと思います。労働するとはどういうことで、その場ではどういう種類の人間的資質が評価されるのか。それを教えるのが「キャリア教育」であるなら、私は「キャリア教育」の充実には大賛成です。
でも、文科省や産業界が考えている「キャリア教育」はそういうものではぜんぜんありません。彼らは相変わらず「個人の付加価値をどこまで高めるか」ということしか言わない。そして、現実にどこの大学でも、「労働市場における卒業生=労働者の売値をどこまで高くできるか」ということに焦点化した教育を「キャリア教育」だと思い込んでいる。だから、そのような「キャリア教育」の成果として、大量の転職者、離職者が構造的に誕生するのは当たり前なのです。