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斎藤孝+山下柚実『「五感力」を育てる』

「五感力」を育てる (中公新書ラクレ)

「五感力」を育てる (中公新書ラクレ)


なんだかんだで大好き、斎藤孝さん!教え子たちが、あんなに寿限無を読みまくっているのを見て、カリキュラムというか教育コンテンツの持つ力の巨大さに気づいたもんなー。この人は一貫して、「身体性」を取り戻そう、としているよね。うちの息子も最近おんぶが好きになりつつありますが、いっぱいおんぶしてあげて、背中のごつごつ感とか、しっかりつかまってないと落っこちて痛い思いするとか、感じてほしいな、と思うのです。
以下、メモ。

p.10
山下「
『声に出して読みたい日本語』も、その身体性こそが真髄だと思いました。声の質感とか響きとかリズムといった、書かれた文字以外の要素の豊かさを私たちはないがしろにしてきました。


p.23
斎藤「
他者からの働きかけに対して、何らかの応答をする力が、「レスポンスする力」であり、身体レベルに落とし込んで言えば、「レスポンスする身体」です。レスポンスはコミュニケーションの重要な部分を占めます。ところが無反応・無感覚な身体だとどうなるか。他人と関わるための最大のツールが身体なのに、そこがおかしくなると人間として大きく欠落する部分が出てくる。そして最近はその傾向が加速しています。


p.25
斎藤「
しっかり食べて力がグッと入った状態になると、自分の存在をたしかに感じやすくなる。自分自身に肯定的にもなれる。スポーツをやっていると、力んではいないけれど、すごく集中していて、身体が自在に動くという状態がときおり感じられます。それを何度も繰り返すと、自分のベストの状態がわかってくる。自分のベストの状態を知っていると、帰るべき場所があるという肯定的な感じが持てますね。


p.39

「揺れる遊具で刺激をしっかり入れることによって、子どもの中の平衡感覚の回路が少しずつつながっていくわけです。遊び終えると、姿勢の保持も以前よりしっかりしてくるし、多動の傾向もおさまってきます」と、LD/ADHDの多くの子どもたちの療育に携わってきた作業療法士・木村順さんは言う。


p.50

多くのLD/ADHDのケースをケアしてきた渋谷千鶴園長(むくの木学園)は指摘する。
「たとえば子育てにおんぶがなくなった。遊びの中に木登りも竹馬もなくなった。力一杯しがみついたり不安定な姿勢をたてなおしたり、ひじやひざなどの関節に力を入れたりして、自分の身体をじっくりと使い、感じる環境じたいがとても少ない。便利で快適な社会を大人たちが求めすぎた結果として、子どもにとって必要な身体や感覚の発達を育てるチャンスまでも奪っているのではないでしょうか。


p.58

「学習障害」という言葉は非常に重い言葉だ、という指摘がある。
「『学習障害』という言葉を使うのなら、指導障害という言葉も使うべきだ。責任がすべて子どもにあるような印象を与えてはならない』と話してくれた、アメリカのある学校区の職員のことを思い出す」(『学習障害』柘植雅義)


p.61

通常学級の生徒と「障害児」学級の生徒とが、一緒になってボールゲームに取り組むことは、どう可能なのか。
「通常のルールでは、障害児がいるチームが不利に決まっています。そこで、ルールを部分的に変更します。ポートボールなら、最後のシュートは障害児学級の生徒がやる、全員がボールを触った後でないとシュートはできない、といったルール上の工夫をすれば、一緒にゲームを楽しむことができます」(以前、宮前中学で障害児の学級「心障学級」を担任していた久保陽治教諭)


p.125
斎藤「
身体感覚の経験を遊びで伝えることは、とても大事です。五感力を育てるには自然がいいといっても、遊び方を知らない子どもをポンと自然の中に放り出しても、実際にはなかなかうまく遊べないですよ。「木はこうやって削ると弓矢になる」とか、「これはこうなるもんだ」と知っていったほうが面白い。知識がないほど新鮮な出会いがあると思うのは、あまりにナイーブな考え方です。昔の子どもたちは、年上の子にいろいろなことを教えられました。自分が発明した遊びだと思っていても、実はほとんど教えてもらっているんです。


p.132
山下「
実際に外に出て行き、空間全体を身体や五感で感じとる、新しい経験にする。その仕事はどういうにおいに包まれていて、どんな音がし、どんなやり取りによって成り立っているのか。身体で、感覚を大きく開いて、感じ取る。その経験を、教室に帰ってから「五感地図」に描いてみるのもおもしろいですね。そうした作業を通して、これまで意味としてしか把握してこなかったことを、自分の身体で感じた立体的な三次元の経験として体得し感じ取っていくことができるはずです。


p.155
山下「
最初はぼおっとしか見えていなかったものがだんだんきめ細かく感じ分けられることと、大人になることは、どこかつながりがあります。経験を積み重ねるということなのかもしれない。