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デューイ『学校と社会』

books education

学校と社会 (岩波文庫)

学校と社会 (岩波文庫)


アメリカの教育者であり、哲学者でもあったデューイの古典。学校は受動的な学習の場ではなく、「小社会」でなければならない、という論。今は、学校も「成績を上げる」という意義を持たされていて、小社会というよりは機能的な場になりつつありますね。いろいろと示唆的な文章も多く、勉強になります。ただ…読みにくいよ、岩波文庫(笑)フォントが小さいのです。行間が狭いのです。
子どもたちの注意をとるために、外的にいろいろと用意をしたり(アニメーション教材とか)、罰を与えると脅すディスインセンティブを設定したり、そんなことをしても、結局は意味なんてないよ、というのが耳が痛い。楽なんだよね、外的にいろいろと用意するほうが。でも、内部に火を灯さないと、結局学びになんてならないし、それがなければ、学校が小社会になったりなんてしませんわな、と思った。勉強になります。
以下、メモ。

p.17

最もすぐれた、最も賢明な親がわが子に望むところのもの、まさにそれをこそ社会はそのすべての子どもたちのために望まねばならぬ。われわれの学校には、これ以外のいかなる理想も狭隘であり、好ましくない。これ以外の理想にしたがうならば、それはわれわれの民主主義を破壊する。社会が自らのためになしとげた一切のものは、学校のはたらきをとおして、あげてその未来の成員の手にゆだねられる。


p.66

学校は子どもが実際に生活をする場所であり、子どもがそれをたのしみとし、またそれ自体のための意義をみいだすような生活体験をあたえる場所であることが最も望ましいというべきであろう。


生活の正常の過程と知識や訓練の習得とは両立しないものなのか?という問題が発生する


p.90

書物は経験の代用物としては有害なものであるが、経験を解釈し拡張するうえにおいてはこの上もなく重要なものである。


p.94

これまで私は、子どもが日常のありふれたやりかたで獲得するところの経験が学校にもちこまれてそこで利用されると同時に、子どもが学校で学ぶことがらが日常生活にもちかえられて応用され、かくして学校を、互いに孤立する諸部分の複合体ではなくて、一つの有機的な全体であるようなものたらしめるためには、学校を生活とどういう工合にむすびつけたらよいかを、あきらかにしようと努めてきたのである。


p.159
子どもの注意を引こうと、インセンティブ/ディスインセンティブを与えたところで、結果はうまくいかない:
1.そうして得られた注意は部分的あるいは分割されたものに過ぎない
2.常に外的なものに依存していて、内的なところから学びの意欲が生まれていない
3.かかる注意はつねに「学習」用のもの、いいかえれば、他人が尋ねるであろうところの問題に対する、すでにできあがっている解答を記憶するためのものでしかない


p.179
デューイの教育理論「小社会としての学校」:
1.学校を子どもたちの自発的な活動がそのなかでいとなまれる小社会たらしめる
2.学校と社会とを結びつけることによって、学校という小社会における活動が学校の外の大なる社会の歴史的進歩を代表するものになる