藤原正彦『古風堂々数学者』

古風堂々数学者 (新潮文庫)

古風堂々数学者 (新潮文庫)


少し前に読んだのだけど、ようやく読書メモ化。教育カリキュラムの企画をここ数週間、ぐるぐると考えあぐねている。ヒントになりそうなものならば何でもつつこう、ということで、(あまり好きなものの言い方ではない)藤原正彦さんの本にもあたる。数学者なのに、情緒や武士道を非常に重視している人。そもそも、理詰めで説明できるようなこと(=合理性)を追求したアメリカが、立ちゆかなくなっているではないか、という議論。理屈ではわからないことこそを教育で教えなければならないのだ、と。

理詰めに説得できるような事柄は、若者は言われなくとも分かっている。特に教えるべきは、合理的に説明できぬ、日本人としての「かたち」である。なぜ卑怯を憎まねばならないか、例えばなぜ大勢で一人をいじめてはいけないのか、なぜ大きい者が小さい者を殴ってはいけないのか、理路整然と説明するのは困難である。名誉が生命と同等の重さを持つこととか親孝行だって、必ずしも合理的とは言えないだろう。
そこでひるんではいけない。理屈の通ること以外は信じない、という態度こそが若者に共通の大きな欠点なのである。戦後教育はその傾向を助長している。アメリカ化である。合理性だけを重んずる社会がどんなものかは、現在のアメリカを見れば大概見当がつく。伝統国イギリスと同様、我が国には幸い、古くからの良き「かたち」がある。(p.24)

そんなことまで言っちゃっていいの?という気持ちはするものの、確かに倫理とか公共心とかが、教育の中できちんと教えられていないな、とは感じるので、このあたりは参考にしたい。あとは、それを「どう教えるか」だと思うんだよね。倫理とか公共心とか、教えることに成功している学校もあると思うんだ。でも、それが多数派にならなければ、教育としては成功だと言えない、ということでしょう。藤原さんは、続けて初等中等教育のカリキュラムを決定する条件を3つ挙げている。曰く、
初等中等教育のカリキュラムを決定する三条件(p.50):

  1. 学校で教えるのが適当か
  2. 国民の大多数にとって必要か
  3. 子どもの発達に即しているか

これも、大事な点だ。この点の1つめ、学校で教えるのが適当か?は、裏返して民間で何を教えるべきか、という僕らが考えるべきポイントに繋がっていく。
以下、メモ。

p.50-51

とりわけ国語の重要性は図抜けている。三条件に最もよく適合するというだけではない。国語は、言語教育という要素にとどまらず、すべての思考および情緒の基盤となるからである。
人間は思考した結果を言語に表すばかりでなく、言語を用いて思考する。私の専門とする、言語には縁遠いと思われがちな数学でも、思考はイメージと言語の振り子運動と言ってよい。思考と言語は分かちがたいのである。そして思考の中核となる論理的思考の養成には、作文や討論を通して論理的表現を鍛えることが最も有効と思う。


p.234
解説より

私(注:内館牧子)を救済した国語教師は、ある放課後に一対一になると、言った。
「僕は何かひとつだけ飛び抜けてできる子は面白いと思っている。何も平均的になる必要なんかないんだ。君の読書量、国語力が将来、君をどれほど支えるか。僕にはそれがハッキリと見える。だけどね…」
一呼吸おいて付け加えた。
「他の教科も落第しない程度に努力してくれよな」


p.234
解説より

藤原は教科の中心に国語を置くことを訴え、
「総合科目の内容は基礎さえ固まっていれば、中学や高校以降に始めても充分間に合うものばかりである。」
「小学校で国語算数を大幅に削り英会話やパソコン操作を教える、という文部省の改革は亡国への確実な第一歩」
と断じているが、まさにその通りである。