司馬遼太郎『「明治」という国家』

「明治」という国家

「明治」という国家


すでに司馬さんが作品の中で「余談」として語っていることが多かったのです。読んでみての感想は、僕はつくづく司馬史観が好きだなぁ、と。司馬さんの作品は、本筋と同じくらい「余談」が好きだ。その余談ばかりを集めた本、という感じ。いいな、と思ってメモしたページは、大隈重信新島襄のエピソード。

p.162-163

新島(襄)はアメリカに十年いました。基礎教課の学校を出てから、アーマスト大学--いま同志社と姉妹校になっています--に入り、ここを出てさらに神学校に入りました。
その間、日本では急速に歴史が進みました。幕末の騒乱がおわり、明治国家がはじまったのです。明治7年(1874)、かれは、ヴァーモント州ラットランド市の伝道教会の年会で、演説者として指名された。
新島は、日本で革命がおこなわれたことをのべ、
「しかし、あたらしい国家は、大きな方針をまだみつけていない。わが同胞三千万の幸福は、物質文明の進歩や政治の改良によってもたらされるものではない」といったあと、「自分は日本においてキリスト教主義の大学をつくるつもりである。その資金が得られなければ日本に帰れない」とまでいいました。新島という人は、エキセントリックというより、自分で自分を責めてそのあげくに自分を鼓舞してしまうといったはげしい性格をもっています。
それだけに、聴衆にあたえた感動は大きかったのでしょう。演説がおわるや、一人の紳士がたちあがって、一千ドルの寄付を申しこみました。当時の一千ドルというのは容易ならざる金額です。このひとは、Pater Parkerというお医者さんでした。場内、つぎつぎにたちあがって、たちまち五千ドルあまりの寄付があつまったといいます。大きなお金です。
新島が演壇をおりたとき、かれの前に貧しい服装の老農夫が近づいてきて、二ドルをさしだしました。かれのあり金ぜんぶでした。この二ドルはかれが家に帰るための汽車賃だったのです。歩いて帰るつもりだ、とかれはいいました。
新島がえらいというより、この時代のアメリカには、そういう気分が横溢していたようです。
アメリカは、プロテスタンティズムでできあがった国で、この19世紀の後半は、ひとびとのなかに真実に神がいましたし、この社会が共有する理想は動かざるものでした。また人類は進歩すべきだし、進歩は幸福をもたらすものだという信仰は、ゆるがないものでした。さらには、アメリカ人を特徴づけるところの善意というもののあふれた時代でもありました。


p.177

大隈(重信)は、佐賀藩きっての開明家で、旧幕時代に蘭学も英学も学んできた男であります。開明家としてのかれはよほど容積がひろいのですが、それでもキリシタンを容れるほどには至っておりません。というよりも、かれはたとえそれが悪法であっても法は法である、法は守られねばならぬ、という法治国家主義者でした。かれがそういう思想をもっていたことは、日本古来の政治慣習を通観し、日本文明の統治上の本質は儒教でも仏教でもなく、法家だと一言でのべつくしたことがあるのをみても、察せられることであります。私も同感で、このあたりの洞察眼は大したものです。